△最近の絵日記をみる   △アルバムをみる   △検索   ▲TOP

02/27/2010 DOGU
http://www.nhk-p.co.jp/tenran/20091215_142709.html

この前やっと観に行ったけど、終わるまでにもう一回行きたいと思ってて。

そもそも、子供の頃に横浜の保土ヶ谷区に引っ越したら、周りの畑は土器のかけらだらけだし、いつも遊んでた山や古い団地が切りくずされば遺跡だらけで、よく土器のかけらや石器みたいなもの拾ってたんだけど、なんかまえから漠然と人や歴史の事を考えたりしてて、「もののけ姫には厳しいメッセージがあるな」とか何も知らずにいたら、
何年も前だけど、英語を教わっていたアメリカ人の友達が、学者志望で日本の歴史や宗教について勉強研究してて、もちろん俺なんかよりアカデミックにいろんな物事を把握してた。

この人とその物事について対等に話が出来たらなと思ったり、日本人や自分を客観的に見たりその視点の意識とかについて考えたくなった。

東北の事や沖縄の事やアイヌの事や、際限なく広がって世界史とか、全部がつながってるからとてもベーシックな事さえ良く分かんないしね。
下手にちょっと知るくらいなら、全く知らない方が良いかもしれないと思ったり。
でも一応日本人だし、自分がどういう人間で、今俺がいるってことは先祖を辿れる物なら一万年前とかまで辿ったら、そこには誰か人がいる訳だし。
自分がどういう系統の道筋の人間なのかとか。

なんか、教わらなくても勝手にやりたくなる事や、出来る事とか好きな事とか、今の社会の枠組みに対する考えとか適応できるレベルとか、いろんな人のタイプもあるだろうし、日本でも地方によっていろんな祭りとか、自然に自分の中にある行きたい方向とか。
具体的な事書くと長くてあれなんだけど、とにかくそんなような事を自分なりに考えてつなげて、自分手帳作って、今や昔の、人の中の事を今より分かると言うか分かったつもりでも良いけど、そんな事考えてるのが楽しいのね。

土偶は、観に行くと全く既成概念が崩されて、何だこれは!と言うか昔ここには誰がいたのかとか色々少し怖くなったりした。前から写真とかでは見た事あった物も、立体で見ると全く違うイメージ受けるしね。
単に面白いと言えば面白いし、深く色々考えてみたければそれはどこまでも深く行けるし。

実際世の中見えない物は、あるはずない物だから見えるのはおかしいとか、迷信とかが軽んじられてる気がする時があるけど、なんだか分からない物をなかった事にしたりしないで、はっきりなんだか分からなくてもその現象や物事とつながっている為に、適当に話を作って、テイタラボッチとか人魂とか、竜が天に昇っていったとか、そういう事にして、分からない物事を無かった事にしない為のもが迷信みたいな物だと思ったりね。
闇雲にオカルトや人のパラノイアを助長する気とかはないけど。

原子や分子や、最近じゃ素粒子なんて物もスーパーカミオカンデという装置で確認する事が出来たと言うけど、そもそもそんな見えない物が、確認されるよりもずっと前から、それがあるという事が分かってたというのが凄いね。

何でも知ってるつもりでも、知らない事がたくさんあるという事を、ホントに知ったり理解するのも難しい事なのかもしれないしね。
土偶見て、いろんな人がいろんな事感じたり推測したりしたのを聴きたい気もするね。
ホームページに載ってる物の他にもいろんな土器とか変な形の物とかあって、見えていなかった昔の人のイメージとかが書き換えられると言うか、ちょっと待てよって感じになったりね。

、、やはり長くなるね。

06/16/2009
近年、漫画とか本とか比較的良く読んでる気がするんだけど,昨年あたりから、ふとした時に見つけて読んでたのが、「岳」という山の漫画。

山でのレスキューや出来事や,人と山の話というか、主人公がなんか純朴だけど,山のように優しいというか強いというか,俺の嫌いな癒し系な話のような感じもあるけどそうならない。山の厳しさもあったり、、まあなんかとにかく、いいというか好き。

自分はあんまり山に登ったりしてる訳じゃなくて,山には行きたいと思ってるけど,前に上高地や立山にの方に行っても,まあ,ある程度は途中までのコースで登ったりはしたけど本格的にちゃんと登ったった事はなくて。
それで、もっと奥に登りたいとおもってて。
何年か前に富士山は登ったけど,ちょっとそれとは違くて。

明治時代の劔岳での測量の映画がやるみたいなので、なんか見たくなった。
子供の頃見た映画、八甲田山は地獄だったけど。

また,ロッククライミングとか、スキンダイビングとか、なんかすごいなと思って憧れる。
平らなところを9秒で走ったり,丸太みたいな筋肉があるとかそういうのと、なんか別物というか、、うまく言えないけど。


海は去年,やっと10mまで潜れるようになって、スキューバだったら、まだまだ何やってんのって感じの深さだけど、普段人工的な平らなところで暮らしてるからか,縦とか横に3次元で動けるのは、なんか気持ちいいというか。

高校の時の相棒と言うか,ベースのバンド仲間がいて,仲は良かったのか悪かったのか,よくつるんでいた。
その後彼はベースプレーヤーになったのだけど、高校の友達なんて、ほんの数人以外はもう全然会わないのに,彼とはほんとに断続的だったけど会ったり、もう大分前だけど彼の仕事を少し手伝ったりもした。

彼は子供の頃、父親とよく山に登ったと言っていて、またいつか登りたいようなことを言ってたので、俺も一緒に登りたいと言っていた。

だけどその父親も亡くなってしまい,その彼も,それから何年か父親の残務整理のような事で大変になって,少しは力になれればと相談に乗ったけど,その後連絡が取れなくなってしまった。
ちよっと心配なのだけど、、、

山に登る事を考えると、今でもいつかそいつと登ってみたいというか,そいつの事を思い出してしまうのだった。

人はなぜ山に登るのだろう?

05/25/2009 風邪
最近インフルエンザがどうとか,ニュースでやってるけど,電車に乗ったらマスクしてる人は、昼間のせいかあまりいなかった。
修学旅行や保育園が休みになったり,どのくらい深刻なのかそうでもないのよく分からない。
この後に来る鳥インフルエンザが強力で,そっちのがかなりヤバいとか、どこどこの国では言われているとか話を聞いたけど、いつものごとく実際よく分かんない。

小学生の頃,風邪がはやったとき,クラスのちょっと変わり者のやつがいて,俺はそんな嫌いじゃなかったけど,あまり好かれてはいなかった。
そいつが,風邪ひいて明らかに咳とかして具合悪そうなんだけど,首にネギをまいて学校に来ていた。
しかし、何日かしてもずっと同じネギを布にくるんで首にまいていたので、ネギが強烈に臭ってきた。

当然の事ながら,周りは男女問わず,「臭いっ」とか「あっち行け」とか、そこから発展して,それをネタにふざけるやつとか、エンガチョとか、集団でさけるような状態になって,みんなひどいことを言うようになってくる。
今で言ういじめとかじゃなくて、半分ふざけてる感じもあるけど,みんな調子に乗って来るし臭いのも不快だ。

当の本人は普段から,嫌われ者を気取ったり落語をしたり,かんしゃくを起こしたりのというやつだから,深刻というより,逆切れな感じで。

先生が程よく何かしてくれればいいけど,何もなかったので,学級会で、よけいな事だけど俺が議題に出した。
やっぱり俺も調子に乗っていたのか,「誰々くんの首のネギが腐って臭いから、なんとかした方がいいと思います」と,言ったのだけど,先生はふざけてるととったのか,
「風邪をひいても、がんばって学校に来てる人がいるのに、そういうことを言ってる人がいるけど、みんなはどう思います?」と言って、周りのみんなを一人一人さして,意見を言わせた。

みんな,「がんばってきてる人に、そういう事は言ってはいけないと思います」とか「ひどいと思います」(俺の言った事が)とか、そんなのばかりで臭いと言った人はいなかったりして,実は嫌われてたのは俺の方なのか(笑)その場では俺がちょうどいい非難の的になった気がした。

別にその事が、俺にもネギのやつにも、そのクラスにも尾を引く事はなかったけど,とりあえず,次の日そいつの首のネギは新しい物になった。
そしてなんか,タバコの分煙や携帯とかのマナーの話とか、酔っぱらって裸になって逮捕とか,メディアがどうとか、、、生きてるといろんな事を感じるけど、分かんない事は多いなとか、人や世の中の事考えると、なぜかあのネギの事をたまに思い出したりして。

04/06/2009 「話にならない」と「話が合わない」
話にならないのと、話が合わないというのは違う。
この前、友達がその人と仲のいい友達のことを、「あいつは自分と違って都会的なやつですかしてて、ある意味、話が合わねぇんだよね。でもなんか腐れ縁ていうか仲がいいんだけどさ」みたいなこといってて、

「そうなんだよ」と思った。
タイプが違う人とは話が合わないとかよくいうけど、何ていうか話というのは本当は、上っ面での好きな映画とかアートとかそういうこととか、流行りものとかテレビとかそういうんじゃなくて、例えば、全然住んでる場所とか仕事とか趣味とか違うとか、タイプが違うとか言ってても、なんていうか実は同じタイプというか、根っこのところで何かについて思っているというか探しているというか、そういう同じことを意識している人同士しなら、全く別の視点や位置からみた、自分が考えてることに対する貴重な情報があったりして密かに「おおっ、そうか〜」とか思うことがあったり反対の事言ってても実は共感してたりして、いいと思ったりね。

話にならないというのは、何ていうか、相手を馬鹿にしてたり上っ面だけで話をはなから聞かない人とか、自分の言いたい事とか理屈を何の根拠かいつまでも正しいと言って、相手の話が反論ならもうそれ以上言わせないように、浅い世の中の常識とか持ち出して、その人の知識の小いささとか、テレビが言ってる一般論とか盾にしたりして、自分が正しいとか人をうち負かしたいとか、はずかしげもなく馬鹿丸出しに気がつかない人とかが相手のときというか。なんか安いディベートやって、エリート気分になってるっていうか。

程度の低い事や言い訳を言うつもりはないけど、物事、上っ面じゃないというか、、
世の中もテレビとか、インターネットとか、ニュースとか、ゴシップとか、上っ面っぽい部分や、そんな事もおおいように感じたり、そんなだから、みんな上っ面で自分をみられちゃうと思って、自分の上っ面を当たり障りなくよく見せれるようにがんばって、それに過剰にエネルギーとられちゃったりね。それで深い部分見失ったりね。

何も上っ面の体裁整えるのが全部悪いというのではなく、コミュニケーションとはそんな浅いものではないというか、深く物や人を見るというかそこでコミュニケーションするというか。

誤解はつきものだけど、時には、深く差し込む話や、悪口とかは、世の中で言うところの真剣とか誠実という言葉と並ぶくらいに大事な気がしたりね。

でも最近、世の中の感じとして、深いとこで見ないで、おもしろおかしく、というか厳しく、深いところの意図はわかるような事なのに、揚げ足とったり言葉尻でとらえて大事にしたり、そういうの感じたり。

でも例えば、モンスターペアレンツとか、モンスターがつくような人たちを相手にしてる人たちには、そんな簡単な事じゃないと言われてしまうかもとか、そんな事もふと浮かんだけど。

しかし、コミュニケーションとは、単に言葉とかテクニックではなく、心とか想像とか思いとか、なんか目に見えないような、そういうものでとっている割合が高いと思ったりした。

しかしこういう事もっと、楽しいというか、、別に軽く書くつもりはないけど、もっと厚かましくないようにというか、重苦しくない字面で書けないのだろうか俺は。書体を丸ゴで見てもらうとか。
明朝とかで見られるときびしい!

03/28/2009 退屈こそ
最近、懐かしい人とか、人がよく来てくれたりして、最近話したくなっている同じテーマというかそんな事を、みんなとそれぞれ長話する事が出来て、みんなの深みや自分の考えてる事、話す事の大事さというか面白さをすごく感じたり、そんな感じでした。

先日はSHINDOライブがあったりしました。しばらくぶりに見に来てくれた友達もいて、たまたまそのあと家にきてくれたので、細かい俺の聞きたい感想や、音楽や物事や人や、人や物の内面と言うか、俺の思う所の深いというか繊細な話が出来ました。ありがとう。

#############

それで、
先日は、なんか友達が、その友達の友達の子供が、休みの日もグウタラしてて無気力だから(笑、大きなお世話)何かさせたいという事で、みんなで手芸部とかいって工作教室みたいな事をしようということで家にきた。

別に無気力でもなんでもない、ヒップホップダンスもたまに習ってるとか言ってる、小さくてちょっと生意気なかわいい小学生の女の子が来た。

皆さんそれぞれ財布作りたいとか色々あるみたいだけど、その女の子は何するかなと思って、 なにやる〜?、、、えーわかんない ってとこから入って、みんなテキトーな事言ってるうちに、動物園が作りたいって言い出して、彼女はそれをする事に。

なんか今の世の中、積極性がどうとか自主的にどうとか、みんなを引っ張ってく人間がどうとか、仕込みというか計画というか先に脚本を作っておく的な事の方が、重要視(これも大事な事だと思います)されてる感じがしてるんだけど、(別に怠けもんの負け惜しみとかじゃなくて 笑)もっと、空き地のドカンの上で、、なにやる?〜、、わかんね〜、、、というかんじの退屈の象徴のようなやり取りから、というか、退屈こそ、発想と言うか思いつきの母と言いますか、面白い事でも、いつもと同じ事で2匹目のドジョウ狙うんじゃなくて、、、そういう事が今の社会には必要なんじゃないか(笑)とか。

そんな感じで、その辺にある材料とか道具並べて、いじくって、なんかやってちょっと見せたりして、紙になんか描いてみればとかいって、好きにやってもらって、そのまま俺、しばらくどっかで寝ちゃったりして、、起きたら、、ウサギが出来た、とかいってて。

途中、ちょっとは手伝ったけど、これ使ったら、とか言って、接着剤とか材料を置いたりしただけで、、しばらくして着々とアイテムが出来てきて、、
良いじゃん良いじゃんて感じなんで、写真に撮ろうという事で、ちょうどこの前、終わって撤去してきたショーウインドーの壁とか台とかあったので、それ使って、作ったものを好きに並べてもらって、写真とりました。

なんかサルが、カニから柿じゃなくてリンゴをずる賢く取ってきて、ウサギはカメに勝ってきたけど、お互い無関心で、ただそのまま時間のないとまった世界に花が咲いてズームアウトしていくような(笑)
まあ、そんなのどうでも良いけど、なんかシュール(古い言い方!)で良い感じ。

そしたらお母さんが、それを夏休みの宿題に使いなさいとか言って(笑)今、学校では夏休みの宿題とかは、ズルする子がいるから(べつにいいけど)、宿題とかホントに作ってるかどうか、作ってるところとか写真にとってもって行かないと駄目とか言ってて、急遽服の袖をめくって夏に見せかけて、作ってる所の写真とったりしてた。(笑)
そういえば、中学のとき、普段は字も汚くて絵も下手だけど、休み明けの宿題の絵とか書き初めは、大人顔負けの出来な、画家の息子がいたな。

あと、いとこが昔、夏休みの宿題の絵を、何年も毎年同じ絵を出しててばれなかったんだけど、3年目に出したとき、急にコンクールに出されて、どこかで賞を取って新聞に載ったと言ってた.まあ人の評価なんてそんなもんか。
小学校とかの評価のレベルって言うのは(生徒の能力のレベルじゃなくて、先生の評価能力のレベル)っていうのはどういう感じにできてるのだろう?なんて。

まあそんな感じだけど、夏休みまでにはもっと別の面白いのとか思いついたり、作ったりして、そんな写真は使えないんじゃ、(笑)なんて思った。

03/16/2009 それぞれ
なんか、なにかっていうと「それは人それぞれだよね」、とかそういう話で終わりになる事があったり。

実際そうなのだけど、なんか、人は人、自分は自分というか、それは悪くないのだけど、

なんか人とぶつかるのをさけてたり、人を見下してたり、人はどうなっても良いとか自分が良ければ良いとか、そういう感じも感じられたり、
そんな人に干渉するものじゃないと言うか、そういうこともあるしそれはわかるし、
また、ちょっとの話で真意を伝えたり、理解してもらう事が無理そうな話のとき、それ以上聞かないでくれというか、その話題はやめようと言うか、そんなに浅く話すものじゃないと言うか、こんな席でそのときそんな事は話したくないとか色々ね。また、相手の事や物事や空気を良く分からず、話したりも駄目だしね。
別に人それぞれねという事で話が終わるのは、何も悪くないのだけど、何でもそれで終わらしちゃったり、ごまかしちゃうのもなんかね.と言うけど、何の物事かにもよるんだけど、まあそれで終わらせる方が平和と言うか、別に変にほじくる必要なんてないし。

まあそういう事を堂々巡りして色々経験しても、結局もとの位置に戻るのだろうけど、そのものごとの程度によって言ってもしょうがない事とか、話す価値のあるものとか色々あったりして、はなからそれで話を終えるのはどうかなとも思ったり。まあそれを判断するのも人それぞれという事なんだろうけど。

ある事について、人は自分の宇宙で物事を見つめ、外には出さなかったり、でもある事は野暮でもあえて外に出して言葉で問いかけてみたり。
まあ、それを表現するのは本来、別に言葉ではなかったりもするのだろうけど、別に幼稚で馬鹿で、精神的に弱くて不安や愚痴や文句を言ってるわけではなく。

最近、ある人が、生活とかいろんな人とのある事で、「人がどうやってても、そんなのほっといて、自分たちだけが良ければ良いという風に考えてる事があったけど、そうじゃないなと思う様になった」といってたのを聞いて、、
別に俺が、人のために以前から色々考えたり行動してるわけでは、全くないけど、なんかその人がそんなことを言うのを聞いて、、、うまく言えないけど、なんかうれしかったと言うか.なんか変な文だけど。
変だから深追いして書かないけど、、、一瞬、良い気がただよった。

03/16/2009 考えてる事
なんか整理して色々書きたいと思って大分経つけど、何がどうというわけではないが、うまく整理してまとまった事を書こうと思うと、腰を据えてないとだめかなと思ったりするが、そんなにかまえなくてもさっと書けば良いのがここだったはずなのだけど。

いろんな事が色々つながってて何を書いても一つの軸からは外れないつもりだけど、何かバラバラに見えてしまって、それが一つの軸のものに見えてこないとな、とか色々思ったりね。

バラバラ書くと、最近考えた事は、縄文時代の事、アイヌの事、変速機がない自転車をいちいちとめて違う歯車にチェーンをかけかえる事の「凝り」と縄文土器や石器が必要以上にきれいに作られてる事の「凝り」について、、、訳分からん感じなんだけど、、

陶芸家の人と3人話す機会があって、それぞれそにそのような事を問いかけてみたら、いろいろな事や考えが返ってきた。
みんなやはりそのような事を考えているのだ。
陶芸というのは何千年の前からと同じノウハウでものを作るので、昔の人の考えやそういう事をどうしても考えさせられてしまうという事だった。

人や文化の流れや哲学や考古学や、米や酒やいろんな事が交差し、つながっていくのだけど、焦って断片的にしか書けない。

アイヌ文化や縄文文化というのは、すごいテクノロジーや文化を持っているのだけど、何千年もあまり進化せずに同じ事をやってるような、原始生活的なイメージが強くて、今の文化や科学や哲学からは遅れたもののような印象があるけど、先を走っていると思っている現在の文化や考えは、実は周回遅れで、後ろを走っているのは今の文化なのではと思ったり。

縄文の土器は、何千年何万年と同じような素焼きだったりするけど、材質的には、粘土に粒子の違う何種類かの石などが入っていて、強度をだしている。

火焔土器のような凝ったものも、結構短時間で大人数で作っているのでは、女性の仕事ではないかとか、、、、作っている数、何千年も何代にも渡って人が一生その仕事をしたりという、土器についての何千年のノウハウの蓄積は、今、一人の人間が学んで網羅しようにもデータ量が多すぎて解明習得など全く不可能なテクノロジーが詰まっているという話で。

材質や土器そのものを進化させずに、作り方や形、厚さなどの技などを、同じような材質と焼き方を続ける事で、進化してない様に見えるけど、技術などの蓄積や進化はすごいものがあると、そんな土器に詳しいわけではないけど、漠然と感じたり。
どこで最先端とか技術のすごさを見せるかというと、新しい材質とかプラスチックとかに行くのではなくて、デザインや模様、土器の厚さなどでそれを見せるというか。

例えばある土器で、模様やデザインされたフチとかがついてる模様があって、それを陶芸家の人が、いざまねしようと思っても、模様や部品をつける順番すら分からなくてびっくりしたという話と、弥生土器のレプリカを頼まれたときに、その大きさや厚さが不可能なバランスであり、昔にどうやって作ったのか分からなかったという事を、その陶芸家の一人がしていた。

やっぱり作り方が分からないというのが技術の先端をいってるという事になるというか。
マチュピチュの隙間のない石組みの様に。
今、技術の先端というとすぐ新素材とかそういう方に行くけど、そうじゃなくて、あえて、例えば自然に害のないと分かっている土とかにこだわり、技術的進歩はさりげなく作り方の分からない形や模様などで表現するというか。

雑誌の自転車の特集で、古代の石器の必要以上にシンメトリーだったり美しいものは、「凝り」があってそれにはメッセージがあり、変速機がない自転車をいちいちとめて違う歯車にチェーンをかけかえる事の「凝り」と、同列の事ではないかと書いてあった。「凝り」とは、マニアックとかそんな意味にとっても良いのかな。

なんと言うか、機械や科学のブラックボックス(それも人が作ったのだけど)に頼るのではなく、自分たちの中にあるテクノロジーの蓄積を、手とかフルに使って進化させていく方が、人にとって幸せというか、脳が大きく進化していくというか、自然と共存して自然の力にたよって生きる事で無駄なものを作らないで、その分、楽(ただ楽ちんという意味ではなくて)に生きれるのではないかというか。

あえて科学的なテクノロジーを進化させて、自分たち人類や自然な世界に害になると分かっていたり、結果的無駄になったり、いろんなバランスを壊すものを作り出していく事を止めて、人の手に頼って、あえて原始的な素材を使い続ける事を考えてたというかそんな感じがする文化。
でも人の競争心というか、進歩や、技術の蓄積はちゃんと表現していくというかされているというか。それが「凝り」であってメッセージというか。

######

最近になって、茶の味という映画を見た。
何年も前に、アメリカ人の友達とそういう話になったとき、茶の味を見たか聞かれて、見てないといったら、見てたら説明がしやすいといわれたのを思い出した。

ちょっと違うかもだけど、なんていうか、なんでタイトルが茶の味なのかと思ったとき、最初は、毎日飲んでてもあまり気にしてないけど、実はおいしいお茶だったり、ふとしたときにそれに気がつくというような日常の物事の見方というか、そんな事かと思ったけど、漠然と利休とかのお茶の宇宙にも通じてるような、自然と個人の中の宇宙の大きさや、表現というか存在についてというか、そんな事にもかけてるのかと思った.的外れかどうか分かんないけど。

また、この前聞きにいった、中沢新一と山形の山伏の人の話を聞いてても、縄文文化の考えやテクノロジーや心やインターネットのようなものとかを感じた。

山伏自体が、なんていうか、日本が縄文文化というかアイヌ文化というかそういうものに覆われていたとき、その後大陸からの異文化のいろいろな時期の流入で、縄文文化は異文化と混ざりながらも北に追いやられ、また各土地土地に小さく山奥などに島の様に残り分断された。
山伏はそれをつないでいたかのような気さえした。
インターネットなどなくても、分断された人たちや文化がつながっていたのではというか.それは、物理的に人が歩いたりしてすれ違ったり常にしていたという事だったり(インターネットよりスピードは遅いけど)、また、道教の中にあるような、シャーマニズムによる情報伝達というか。(こっちは色々疑問に思う人もいると思うけど。)

なんていうか、テクノロジーとかの進歩が、目に見えて見えるビルとかコンピューターとか、概念化された数学的な物理学(これもすごいけど)ではなくて、人の遺伝子というか人の脳の中にあるというか。
人の脳で考える事を外付けの機械で考えたり表現するのではなく、脳が進化発達する様にというかするうちに、また外付けなしで考える範囲に技術の進歩をあえて収めるというか。またそっちのが実はすごい事なのではというか。
脳が退化するようなものや、何でも恵んでくれる永久機関である自然を傷つけない事の大前提の上で考える文化というか.ただ楽で便利を追求する事が進歩じゃないというか。

水木しげるを読んでて、カッパの話で、カッパが仲良くなった子供にこんな事言ってて、
カッパは何万年も前に今の人類よりすごく進んだ科学や文化を持っていたのだけど、それがカッパを幸せにしない事が分かって、すべてやめて自然の中で暮らす様になったんだよ。というような事。

そんな話だったりするのだけど。

何考えてるのか分からんとか、興味ないとか、その程度の事で自分だけもの考えてるなと思うなよとか、とかとか、いわれそうな(笑)表現する力が甘い感じにしか書けないというか、取りあえず書いてみたというか。そんなかんじ。





02/27/2009 言葉で伝わらないもの
最近ブログとかミクシーとか、随分みんなやってて普通な感じだけど、ここに書くようになった頃は、まだそんなにブログとか今みたいな感じじゃなかったね。

一応、俺の名前で検索するとここが分かるようになってるから、友達でも名刺渡した人でも仕事先の人でも誰でも見れるので、まあそのつもりと言うか、全然そういうの気にしないでと言うか、そんな感じだったけど、随分前だけど、ちょっと人に会ったとき、初めて会ったのだけど、人づてで俺の事を知ってて、ここを読んでたと言われたのだけど、なんか鬼の首取ったみたいと言うか(笑)秘密を知ってますよという感じというか、誰でも俺の名前検索すればここに書いてある事は見れるのに、あなたの事は何でも知ってます的な、そんなかんじだった。

ミクシーだと足跡つくし、色々制限とか出来るしだけど、普通にブログとかだと誰が見てるか分からない。まあそういうものだと思ってたけど。
そのおかげで、昔の友達から何人かメールが来たり会えたりできたしね。



先日初めて落語を見に行った。
柳家喜多八という噺家さんだった。
友人からとてもうまい噺家さんだと聞いていたけど、初めてなんで俺分かるかなとか思ってたけど、とても良いものを見れたと思いました。

話はうまいし面白いのだけど、それ以外にも、なんていうか美意識というか。
言葉で言うとなんかうまく伝えられないけど、
まず、出てくる時の出で立ち、そんなにぴしっと歩いてこない.引っ込む時もまた。
また世の中や人の事をとても深く見てる人なんだなとか。

人からどう見られてるかとか、いろんな人がいろんな意識の中で生きてるけど、自分の立場というか立ち位置から出しゃばらず、もっとカッコもつけれても、わざとらしい事はしないというか、言葉も、昔の江戸時代で言えば芸人とか商人とかの、山の手の人にも失礼にならないように、それでいて自分たちの言葉で話すと言うか.身の長け超えたり気取ったりしないけど、上と言うかお客さまにも失礼に不快にならないと言うか、そういう話し方。

自分が見栄はるためとか知ったかぶったり、自分を守ったり上に見せるためではなく、相手の人様が気持ちよくいてもらうための美しさかな。

昔、子供の頃だったか、落語家さんていうのは、みんな楽しいふざけた人柄なのだと思っていた時、テレビで三遊亭円楽が、菊蔵がラーメン屋出したとかなんとかの事で、いつもの笑い顔じゃない恐い顔でなんかひどい事とか嫌みを言ってたのを見てショックだった思い出がある。それ以来、落語家とか芸人のどす黒いとことか意識して見るようになっちゃった.(笑)

当然ながら喜多八さんにはそういうのは全く感じなかった。
というか、あってもというか誰でもそういうのあるけど、それをどう表現するかだよね.
またライブというか見に行ったから同じ時間と空間にいたから伝わってきた事もたくさんあっただろうね。
テレビで見てた落語のイメージとは全く違った。

リリーフランキーの、おかんとの話の、自分のめちゃくちゃな箸の持ち方は注意してくれなかったけど、人のうちでごちそうになってる時、お新香に手を付けるのは最後の最後にしなさい(お新香に早く手をつけるという事は、おかずがないとかまずいという事を言ってるみたいに見えてしまうから)と叱られた話みたいと言うか。

自分は恥をかいても良いけど、人に恥かかせたり嫌な気持ちにしてはいけないという話だったんだけど。

要するに粋ということなのか。
粋の意味というかイメージは書くと長くなるからまた書きたいけど。

昔、バイトとかしてても音楽やってても、いろんな人がいたけど、知ったかぶったり、出来るぶったり、人のミスや、どうでも良い事を指摘したり、くだらない道理や原則ばかり盾にして、まず人のせいにしたり、一人で自分が上に立ったと思って満足してるような人は嫌いだった。たくさんはいなかったけど。
自分にも自分で気がつかないで、そういう所があったりしたら、そう見られたら恥ずかしいなと思っていた。
またそういう人が、人の事ばっかいう割に、まぬけなミスとかしても隠すし、それに気がついても別にどうでも良いので、馬鹿なやつと思われても良いから気がつかないふりしてたし。

また嫌ってはいても、話したりするのをやめなかったし、こっちの気持ちを分かってほしいと思っていた.その甲斐がないと思う事もあったしそんな事言うほど、どれほどなの俺?ともおもったけど。



なんていうか噺家というか言葉のプロというのは、言葉で表現できない事を話で表現するというか。
ただ言葉並べてこれはこうだと話しても、説教臭かったり上から目線に取られたり、言葉を言葉通りに取られてしまったりということがあったりするけど、直接言葉にするのではなく、何かの話の裏に流れる芯というか、そういう所で感じでもらうというか、伝えたい事を伝えるというのはこういうことかと。

しっかり言葉について考えている言葉のプロの人の話は、やっぱりすごいのだなと、最近他の人の話を聞いてても思った。

昔宇宙に存在するすべての事は言葉で表現できると言った人がいたというけど、そんなものは幻想だと思った。
でも、言葉は道具で、その使い方とか、その他に実はコミュニケーションをとってる本筋の道具は別にあって、言葉と何かまた別のもの、空気とかそういうものを使うテクニックというか人とのコミュニケーションとは、言葉ではなくと言うか、言葉だけでなくそういう気持ちのやり取りと言うか、そういうものがないと、言葉だけが移動するだけで本当は成立しないものかとおもった。

落語のはじめのほうに、本筋のお話にもってく、まくらという導入部があるけど、それがまたすばらしかった。
俺のコミュニケーションにはまくらがないかなとか、ずっとまくらだったりタンジェントしてるかなとか、、思ったけど、結局、
自分は恥をかいても良いけど、人に恥かかせたり嫌な気持ちにしてはいけないという話だな。極端に気にしすぎても、この言葉どおりすぎても違うけど、まあ俺の文なんてこんな風にしか書けないのね.

02/18/2009 あいてる
いい加減ちゃんと書かなくなってから久しいですが、書きたくないわけじゃなくて。
インターネットは便利で、なくてはならない物になってるけど、肝心な話が、なかなかなかったりすぐ削除されたり、結局世の中と同じになって来ちゃったりね。またそれもうらのうらの意志とかややこしくてなんだか分かんないとか考え過ぎとかなったり。

いつの時代もほんとの事というか知りたい事は耳を澄ましたり探したり足を使ったりしないと知る事が出来ないのかもしれなかったり。ずっと知れない物だったり。

また、世の中なかなか思い通りに生きられなくて、人の書いてる物に変な感情持っちゃったりね。
みんな好きに書いて、好きに読めばおもしろいのに。

概念じゃなくリアルが読めると思ってたのに、だんだんブログとかも、楽しい概念、前向きな概念、理想な概念、良い人な概念、頭良いみたいな概念、、概念ばっかりだったり、読まれないと悲しいから、誰も傷付かないとか批判こないようなどうでも良い話になっちゃったりね。誰も読んでなくても。
見せ掛けな前向きな話はもう良いよね(笑)なんて。楽しいとか元気が出るとか癒されるとか、じゃないやつっていうか。そんな事言ってて、毒々しい話俺も読まないかもだけど(笑)いや、そう言うのこそ読みたいね。
間違った事と言われてしまう事や人が言わない事とかを大声で言う人がいなくなってしまったのか、ほんとはみんな間違っちゃってるのか。

何か書く前にちょっと検索すると、自分の考え間違いと思ってかけなくなっちゃうのか。

誰と言うわけでなく世の中。俺もそうなのか。

なんか人が毒ずいたり、吐き出したり愚痴ったりそう言うネガティブと言われる物を吐き出して、それが前向きにとられる場所と言うか、ばか丸出しの本音とか、、要するにほんとの意味で気楽に生きようと言うか。

もう何書いてんだか分かんなくなって来た。
でも、こんな世の中全体見てない無知なばかでも何でも良いから書いておくと、あとで見れるから面白いよね。

でもこんなに科学が進んでも、ずっと残すには石に刻まないとだめだね。

石に書きたいね?

11/01/2008 ながれる
色々書きたい事がたまっているのだけど、なかなか入れ込んで書けない。
どんどん忘れていきそうだ。
思ったそのときに書くのが、あとで見た時一番面白い。
またなんか人の誤解を恐れて、言葉考えたり、よけいな事というか知恵というか、
でもやはり何か掘り下げるときは本をたどってくしかないよな。
インターネットも便利だけど、なんか書いてて、「それはまちがってるよ、ほんとの事はここに書いてあるよ」とか、ただリンク貼られてもナ。便利で助かるのだけどね。むかしの物事の深層の事というのは完璧に知る事は出来ない事なんだろうけど、嘘でも何でも良いからその事を調べていると、脳みそが何かつなげてくれる事がある気がするけど、それはインターネットもやってくれるのだろうか、検索とかリンクとかいろいろな事が出来るのかもしれないけど、結局情報処理というのは人の脳が一番すごい気がするけど。そこから何か見つける力が。

TBOARD 006 Version 0.13
- TOSHISRUS -