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05/01/2011 脱原発とは?
http://twitter.com/#!/inosenaoki
上半分の文はここから抜粋しました。

2年前、全国知事会が三重県で開かれ、僕は石原知事の代理で出席した。
夜7時30分まで会議が続き疲れているうえホテルでの会食は8時すぎだ。
横に坐った福島県の佐藤知事は酔いが回って「東京は福島から電気をもらっているくせに感謝の気持ちもなく原発反対のデモばかり送ってくる」とからんだ。

僕は佐藤・福島県知事の思わず噴き出した不満がわからないではなかった。
東京人は福島人がリスクをとっていることにまったく無関心だし、電力は有限な資源という疑いすらもっていない。
アリとキリギリスの、キリギリスに見えただろう。
その時僕は東京湾に原発を置いたら、と一瞬、考えた。

福島の事故、あるいは福島以外においてもの原発における政府と東電の杜撰な管理体制は、都市住民の圧倒的な無関心によって生じた事象かもしれない。
原発そのもの是非ではない。もし原発が東京湾にあったら、福島第一のようにバックアップ電源を海側に付けたまま放置していただろうか。

佐藤・福島知事は電力を享受する東京人が豊かさを捨てず福島に原発反対と言いに来る。
苦々しかったのだろう。結局、日本人は原発を管理できなかったと海外から不信感を抱かれた。それならあくまでも仮説だが、東京湾に原発を置き日本の技術の総力を挙げブランド回復を図る議論があってもよい。

火力、水力、原発以外に東京湾で太陽光、風力がどのくらい可能なのか、もちろん都庁内で研究会を始動しています。節電政策は将来の電力供給量、発電コストなど考えないとその場凌ぎになります。


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言い過ぎかもしれないけど、福島にリスクだけ置いて電気を使ってた東京では、今まで福島のリスクについて無関心だったが、自分たちに被害が及んで来たから、福島の事にかこつけて、今の福島や宮城の実情の事より、はるかに安全な自分たちの被害や不安の為に声を上げたり、原発推進と言った人を叩いているのか。

「何千年にいっぺんとか確率とかの問題じゃなく、これからもどんな未曾有な災害があるか解らない。
そういう事のたびに、また今回の様に想定外?の事があって取り返しのつかない汚染など被害があってはならないし、その可能性の恐怖にこの先おびえて暮らしていけない、人災も天災も関係ない、だから脱原発。」そんな話を色々なとこでやってた。

まさにその通りで、いくら凄いエネルギーが作れるとはいえ、人の命やそれを支える土地も、膨大な範囲を長い年月殺してしまうかも知れないものを、そうなる可能性がある事を知っていて使い続ける事は出来ない。
そういう考えを元に東京に原発は無かったのだろうか。

でもいままで、そんなものを福島に置いて電気だけ使ってたのか東京都。
福島の人はさっき書いた様な事を感じていたのか。感じていた人もいただろう。原発で潤ってそんな事言う人はいなかったのだろうか?
感じていながら、福島から原発の無い東京に電気だけ送ってて、その事を憂いでいる東京の世論はどのくらいあったのだろうか。

比べられるものではないが、自動車の事故で毎年たくさんの人が死んで、次の年もそのくらい死ぬと予想出来ても、脱自動車の声は上がらない。便利だから。
そんな感じで、東京の電気の使用を削減して、福島から原発を一つでも廃止にしよう、なんて声とかもあがらなかったのか?、俺が知らないだけで、ずっと前からどこかであったのだろうか。

やはりしつこくネガティブに言い過ぎかもしれない。
みんなそんな事思ってない、自分より人の事を考えてるよと言われても、それもその通りかもしれない。
都民に責任は無くて、政府や東電や原子力利権や何か軍産複合体みたいなものがわるかったのだろうか。
他にもどこかにリスクを押し付けて無関心にしている事があるのだろうか。

そのような事をネガティブでよくないと言葉にする必要がなかったとしても、脱原発と言う前にそういう今までのストーリーをよぎらせても悪くはないのではないか。
そんな事いちいち言わなくてもみんなよぎっているのか.俺はただ人や自分を責めたいだけなのだろうか。
津波と東京都民が悪いと言う単純思考に陥ったり、自責の念に浸りたいのだろうか。

幼稚なたとえであれだけど、東京に原発があって、福島に原発が無くて、東京から福島がガンガン電気使ってて、、、全く逆だったら災害になってたら東京ではどんな主張やデモがあったのだろう? それとも事故になる前から、東京は福島に電気を作る為に、危険なのに原発を作って、リスクしょってるとデモとかあったのだろうか。

それはともかく、なんか次の事に行く前にその声を上げる前に、思い返さないと行けない事もあるのではと思っただけのことか。

下のような事かいてる人がいた。そのとおりだよね、、自分にむけて、。
「よい社会を作るためには建設的な批判は非常に重要なこと。でも、ぶつけるだけで満足する「非難」や相手を傷つけるのが目的の「口撃」はやめよう。大きくとらえれば、みんな、助け合って行かねばならぬ仲間なのだから。」

04/23/2011 福島から来た
福島から転入した生徒の周りは空席にするとはひどい話だと思ったが。
その子の気持ちになったりする子供や親や先生はいないのかな。

そんな事言ってると他の子供の親に、「子供のいない人には解らない!」とか「万が一何かあったらあなたが責任とってくれるんですか?!」とか「こんな事言う人と話してもしょうがない」とか言われてしまうのだろうか?
もし、石原知事がこの事をコメントして、「その子の周りに座りたくない子がいたり、親が座らせないと言うなら、そっちが学校を休めば良いんだよ!」なんて言ったらまた、大バッシングが始まってしまうのか?

首長が何を言っても良い訳ではないように、子供の為なら何を言っても、しても良いわけでもないし、学校や政府が信用出来ないのも解るし、きちんと政府の見解が無いのも、一般の人とかに知識が足りないのもいけないけど、、
誰も悪い心だけの人もいないと思うし、子を思うあまりという事で、それを差し引いて悪く思わない様にするのも大事だけど、、
それを差し引いても、こういう話の時、子供の為とか悲しみやつらさが、ヒステリックの盾になってはいけない気がする。
人に自分の気持ちやつらさなんかを共感してもらいたいというばかりでなく、それより人の気持ちに共感するようにする心を持たないとと思ってしまう。

どちらの事にせよ、共感とか人の気持ちなんて解らないからしょうがないとか、、そういう人の話はこういう時はどうすれば良いのだろうか?

福島から来た子供と、近くに座らない子供(座らせない先生や親)のどちらに共感するのか?みんな。
そんな事より、どちらでもなく、こんな事があっても気にしないで何事も無く誰も恨まず、時が過ぎたり人の心がほぐれるのを待てば良いのか?子供はけなげなのか気にしないで過ごしているのか?
現場ではどうなっているのかは解らないが。

04/10/2011 思考停止
石原知事に投票してしまう人は思考停止していると色んな人が言ってるので、自分は政治音痴ながら、こんな事を書くのは怖いのだけど、その事を考えてみた。

原発推進とか天罰とか石原が言ったのを、直接映像や話の前後など見てないのだけど(探してないけど。どこかで見れそうだけど)、人と話したり書き込みなどを見ると、結構その事で「石原を選挙で落としたい」という人が多かった。

電力の事を人と話したら、現在の様に節電している状況でも全然良いじゃないという人も多かった。
オフィスや地下鉄駅、街の看板、深夜営業の店、などなどの照明とかをバブル前の消費電力に戻せば成り立つと言ってる人もいた。
またよく見えないとこで、工場の生産量や、夜の色んな店舗などの売り上げが落ちるとか、雇用とか色々経済的に落ちる事が予想されるので、何か大きく仕組みを変える必要があるという話もあった。

しかしもし、それで色々変えて出来るのだったら、そんなやろうと思えば節約して必要の無くなる東京の電力の一部を作る為に、福島を様々なリスクや、そして実際に汚染して再起不能かもしれない土地にしてしまったことになる気がするのだけど、実際どうなのだろう?
原子力の設備は問題なかったが管理が悪かったのだろうか?

この責任は誰にあるのか?あんな発言をした石原にあるのか?自分たち都民にあるのか?国にあるのか東電にあるのか?、、そんな事は誰のせいでもないという事にして、石原のせいにしてリセットして、現在の事と未来の事だけに、みんなで意識を変えて全力を尽くすという事で丸く収まるのか?

今ぐらいの停電でも電力でも別に良いから、原発なんていらないなんて言ったら、変な事を言うようだが、そんなどうでも良い電力の為にこんなことになってしまった福島県に、石原発言並みに失礼なのではないのか?
色々言ってる人は、以前から福島の原発から東京への電力供給の軽減についてや、原発の必要性のなさを感じていたのか?

東京は首都機能や色々な経済活動で大量の電力を使うけど、それを維持する為に、また原発の事故があった場合も、被害を受けないで首都機能を維持するため他県の発電所から電気をもらう。
前からそうだから、これからも必要なら東京都は誰が都知事でも、とにかく電力を確保するだろう。

その際、原発以外の電力でまかなえるのか?無理なのか?
まかなえた場合でも原発を使いたがるのか?使いたがる場合その理由は何なのか?
石原とその他の人とで、知事になったとき、その選択の仕方や理由は違うのか?

もっと前からマニュフェスト的な事ををたてるでもなく、他の候補は本気で当選するつもりだったのか?
立候補はしたものの、このような状況下に当選して、一般の都民の反感を買う様な、もし石原が都知事だった場合と同じ決断をしなくてはならなくて、自分の評判が下がる様なことに自分がならなくて良かったと思ってる候補者もいたのか?そんな人はいないのか?

石原の原発推進発言の件があって、対抗して出て来た他の候補者は当選した時、電力問題をどうするつもりだったのか。

もし原発じゃなければ、火力その他の発電でまかなう様にシフト出来るのか?
その際の問題は何か?または電力消費を制限して、その際に起きる事や都のやり方にに都民がどこまで理解したり納得するのか?

福島の人たちは原発推進発言をどう受け止めたのだろう?画一的な物じゃなくて、色々な反応があったら知りたい。

石原以外だと、きちんとスキルのある理想の知事はみんな誰にしたいのか?


なんか随分前だけどテレビで原発の話をやっていて、どこかの原発のある所にすんでいる人が、東京の電力を作る原発の為にリスクを負っていると言って、「そんなに東京に電気が必要で原発が安全なら、新宿に作れば良いでしょ」と言ってたのが忘れられなくて今回の事もその事をずっと思い出して考えてて。

何事も無い時には、口触りが良かったり見栄えが良いものに安易に流れて、何かあった時は、必死に人のせいにする様な空気は、国とか政府だけでなく、俺もそうだし全ての人にあると思う。
だから、この前の他力の話みたいに、気がつかないうちに自分たちのしてた事を考えて、(宗教的かな?)
そして「あいつはおかしい!」とか「あんな奴落とせ!」とかじゃなくて、自分たちのI am sorry(謝ったり、同情したり、理解共感、、)から話をはじめないと。ホントに。

疑問文ばっかですみません。
また、俺はどちらかと言うと人に感情的な人間に思われてる気がする事があるのだけど、そんな俺の無知故なのか、石原批判が凄く感情的な物に見えてしまって、自分なりに疑問を書いてみました。

選挙にはいきますよ。

04/09/2011 他力
大分前に、五木寛之の他力という本を読んだ。
NHKでその本についての特集で、作家本人が仏教について色んな国々を回った番組があって、何年か前に見たのだけど、それがBSで放送しててふたたび見た。

実際この本を読んだり、この番組を見る機会があったら、誰でも何か感じる事があるかもしれないけど、今の人や世の中の状況や、また近年から地震以前の状況が、この地震があった事で色々浮き彫りになってる感じがしてしまった。

五木寛之が他力について、アメリカで仏教をといていた日本の金剛寺の僧侶と話をしていた。

金剛寺の僧侶との話で、僧侶が以前、アメリカでといた人々のなかには、最近浮き彫りになって来た日本の世の中や家庭環境のような事が、当時既に人々に影響があって、ファミリー、ファミリーとみんなよく言う割には、実際はそういう物が希薄になって不安になっているアメリカの人が多かったという話があった。

その中で、当然全ての人という訳では無いけど、アメリカの人なんかによくある、家族の写真をデスクやポケットにいつも入れてて人に自慢したりとか、極端なポジティブシンキングやあの感じは、家族とかつながりとかそういう感覚の中にいる希薄さの、不安の現れなのかもしれないという話があった。

その僧侶が英語で仏教を説明するとき、I am sorry. Thank you. I love you.の三つの言葉(心)が仏教だと説明すると言っていた。

「自分は悪い事はしていないから謝る必要は無い、悪くないのに謝ったら、この社会で敗者になってケツの毛まで抜かれてしまう」とか、「文句言うやつはしかとだ」とか「勇気を持って敵を悪を倒して困難に立ち向かう」というのではなく、

生きていれば、よかれと思っていても気がつかなくても人に迷惑をかけていたり、人に不快というか負荷をかけている事も必ずあるのだから、善とか悪とか法律や常識やどちらが悪いではなく、、もし相手が怒ったなら、それに対して目には目をじゃなくて、そういう想像力で、まず自分が謝ったらそこからお互いにちゃんと物事を見据えるきっかけになり、英語的には謝るというより、同情すると言うか、気持ちを解るとか共感というニュアンスもあるし、そういう事で共に歩む事が出来るのではないかという事かなと思った。
でも実際そんなのはバカなんだろうか?

五木寛之は、戦後満州から引き上げてくる時、あの状況の中では善良で人を思いやる様な人は端に追いやられみんな死んでいき、自分の様な我の強い物だけが生き残った、という何か罪の意識の様な物があると言っていた。

ポジティブ、ネガティブと言って、ネガティブな話や態度は忌み嫌われ、ないものにしなければいけない様な空気を最近は何となく感じているけど、自分や世の中なんかについて、白や黒や否定も肯定も無く、よく物事を見据えるために、ネガティブと言われる部分を簡単にリセットしたり消してしまったりするのではなく、そういう普段は蓋をしてしまうような部分から思考をはじめたりしても良いのではないかという話だった。

そういう所から物を見て考えると、奥底の物事や相手や自分の本当の気持ちを感じたり考えられたり、また、それを白黒やポジティブネガティブのシンキングスタイルからみたとしても、良いと思える事や希望が持てるのかと思った。
もちろん精神医学的に、自分が悪いとかそれが無理とか危険に感じる人は、こんな考え方をしなくてはいけないなどという事は無いけど。

俺の情報量の薄さや、世を見る見識の低さが露呈してるだけなのかもしれないけども、、、、
地震災害になって、ボランティアや支援についてや原発や石原知事についても、、
何か支援や応援も、メディアなんかの何かディフェンシブだったり過剰な感じだったり、個人が被災地に対して何もアクションを起こしていない、何をしたら良いのか解らない、という焦りや不安は、自分達が本来どのように行動を起こしたり表現したいのか解らなかったり、自分が冷たい人間なんじゃないかという罪の意識や不安の現れの部分なのではないかとか、、

行動を起こす事も何か言う事も大事だけど、物理的に非科学的とか役に立たないと言われようと、とにかく根本には気持ちというか祈りがある事が大事だと思う。

今回地震で、原発を持たない東京の為に発電している、福島の原発がとてつもなく大変なことになり、今回こんな事になるまで特に原発の事を色々思いながらも強く反対や訴えてた訳でも、電気を節約して生活をしてた訳でもなかった人々の、その事への罪の意識や不安の現れが、石原のあの発言に対して勢いよく吹き出して、石原氏自身の真の考えや、原発の是非や色々絡み合った社会の状況や国民の生活についての事が、冷静に正確に見れなくなってしまいそうな気がした。

他力本願の本当の意味を今一度考えたいと思う。

02/27/2010 DOGU
http://www.nhk-p.co.jp/tenran/20091215_142709.html

この前やっと観に行ったけど、終わるまでにもう一回行きたいと思ってて。

そもそも、子供の頃に横浜の保土ヶ谷区に引っ越したら、周りの畑は土器のかけらだらけだし、いつも遊んでた山や古い団地が切りくずされば遺跡だらけで、よく土器のかけらや石器みたいなもの拾ってたんだけど、なんかまえから漠然と人や歴史の事を考えたりしてて、「もののけ姫には厳しいメッセージがあるな」とか何も知らずにいたら、
何年も前だけど、英語を教わっていたアメリカ人の友達が、学者志望で日本の歴史や宗教について勉強研究してて、もちろん俺なんかよりアカデミックにいろんな物事を把握してた。

この人とその物事について対等に話が出来たらなと思ったり、日本人や自分を客観的に見たりその視点の意識とかについて考えたくなった。

東北の事や沖縄の事やアイヌの事や、際限なく広がって世界史とか、全部がつながってるからとてもベーシックな事さえ良く分かんないしね。
下手にちょっと知るくらいなら、全く知らない方が良いかもしれないと思ったり。
でも一応日本人だし、自分がどういう人間で、今俺がいるってことは先祖を辿れる物なら一万年前とかまで辿ったら、そこには誰か人がいる訳だし。
自分がどういう系統の道筋の人間なのかとか。

なんか、教わらなくても勝手にやりたくなる事や、出来る事とか好きな事とか、今の社会の枠組みに対する考えとか適応できるレベルとか、いろんな人のタイプもあるだろうし、日本でも地方によっていろんな祭りとか、自然に自分の中にある行きたい方向とか。
具体的な事書くと長くてあれなんだけど、とにかくそんなような事を自分なりに考えてつなげて、自分手帳作って、今や昔の、人の中の事を今より分かると言うか分かったつもりでも良いけど、そんな事考えてるのが楽しいのね。

土偶は、観に行くと全く既成概念が崩されて、何だこれは!と言うか昔ここには誰がいたのかとか色々少し怖くなったりした。前から写真とかでは見た事あった物も、立体で見ると全く違うイメージ受けるしね。
単に面白いと言えば面白いし、深く色々考えてみたければそれはどこまでも深く行けるし。

実際世の中見えない物は、あるはずない物だから見えるのはおかしいとか、迷信とかが軽んじられてる気がする時があるけど、なんだか分からない物をなかった事にしたりしないで、はっきりなんだか分からなくてもその現象や物事とつながっている為に、適当に話を作って、テイタラボッチとか人魂とか、竜が天に昇っていったとか、そういう事にして、分からない物事を無かった事にしない為のもが迷信みたいな物だと思ったりね。
闇雲にオカルトや人のパラノイアを助長する気とかはないけど。

原子や分子や、最近じゃ素粒子なんて物もスーパーカミオカンデという装置で確認する事が出来たと言うけど、そもそもそんな見えない物が、確認されるよりもずっと前から、それがあるという事が分かってたというのが凄いね。

何でも知ってるつもりでも、知らない事がたくさんあるという事を、ホントに知ったり理解するのも難しい事なのかもしれないしね。
土偶見て、いろんな人がいろんな事感じたり推測したりしたのを聴きたい気もするね。
ホームページに載ってる物の他にもいろんな土器とか変な形の物とかあって、見えていなかった昔の人のイメージとかが書き換えられると言うか、ちょっと待てよって感じになったりね。

、、やはり長くなるね。

06/16/2009
近年、漫画とか本とか比較的良く読んでる気がするんだけど,昨年あたりから、ふとした時に見つけて読んでたのが、「岳」という山の漫画。

山でのレスキューや出来事や,人と山の話というか、主人公がなんか純朴だけど,山のように優しいというか強いというか,俺の嫌いな癒し系な話のような感じもあるけどそうならない。山の厳しさもあったり、、まあなんかとにかく、いいというか好き。

自分はあんまり山に登ったりしてる訳じゃなくて,山には行きたいと思ってるけど,前に上高地や立山にの方に行っても,まあ,ある程度は途中までのコースで登ったりはしたけど本格的にちゃんと登ったった事はなくて。
それで、もっと奥に登りたいとおもってて。
何年か前に富士山は登ったけど,ちょっとそれとは違くて。

明治時代の劔岳での測量の映画がやるみたいなので、なんか見たくなった。
子供の頃見た映画、八甲田山は地獄だったけど。

また,ロッククライミングとか、スキンダイビングとか、なんかすごいなと思って憧れる。
平らなところを9秒で走ったり,丸太みたいな筋肉があるとかそういうのと、なんか別物というか、、うまく言えないけど。


海は去年,やっと10mまで潜れるようになって、スキューバだったら、まだまだ何やってんのって感じの深さだけど、普段人工的な平らなところで暮らしてるからか,縦とか横に3次元で動けるのは、なんか気持ちいいというか。

高校の時の相棒と言うか,ベースのバンド仲間がいて,仲は良かったのか悪かったのか,よくつるんでいた。
その後彼はベースプレーヤーになったのだけど、高校の友達なんて、ほんの数人以外はもう全然会わないのに,彼とはほんとに断続的だったけど会ったり、もう大分前だけど彼の仕事を少し手伝ったりもした。

彼は子供の頃、父親とよく山に登ったと言っていて、またいつか登りたいようなことを言ってたので、俺も一緒に登りたいと言っていた。

だけどその父親も亡くなってしまい,その彼も,それから何年か父親の残務整理のような事で大変になって,少しは力になれればと相談に乗ったけど,その後連絡が取れなくなってしまった。
ちよっと心配なのだけど、、、

山に登る事を考えると、今でもいつかそいつと登ってみたいというか,そいつの事を思い出してしまうのだった。

人はなぜ山に登るのだろう?

05/25/2009 風邪
最近インフルエンザがどうとか,ニュースでやってるけど,電車に乗ったらマスクしてる人は、昼間のせいかあまりいなかった。
修学旅行や保育園が休みになったり,どのくらい深刻なのかそうでもないのよく分からない。
この後に来る鳥インフルエンザが強力で,そっちのがかなりヤバいとか、どこどこの国では言われているとか話を聞いたけど、いつものごとく実際よく分かんない。

小学生の頃,風邪がはやったとき,クラスのちょっと変わり者のやつがいて,俺はそんな嫌いじゃなかったけど,あまり好かれてはいなかった。
そいつが,風邪ひいて明らかに咳とかして具合悪そうなんだけど,首にネギをまいて学校に来ていた。
しかし、何日かしてもずっと同じネギを布にくるんで首にまいていたので、ネギが強烈に臭ってきた。

当然の事ながら,周りは男女問わず,「臭いっ」とか「あっち行け」とか、そこから発展して,それをネタにふざけるやつとか、エンガチョとか、集団でさけるような状態になって,みんなひどいことを言うようになってくる。
今で言ういじめとかじゃなくて、半分ふざけてる感じもあるけど,みんな調子に乗って来るし臭いのも不快だ。

当の本人は普段から,嫌われ者を気取ったり落語をしたり,かんしゃくを起こしたりのというやつだから,深刻というより,逆切れな感じで。

先生が程よく何かしてくれればいいけど,何もなかったので,学級会で、よけいな事だけど俺が議題に出した。
やっぱり俺も調子に乗っていたのか,「誰々くんの首のネギが腐って臭いから、なんとかした方がいいと思います」と,言ったのだけど,先生はふざけてるととったのか,
「風邪をひいても、がんばって学校に来てる人がいるのに、そういうことを言ってる人がいるけど、みんなはどう思います?」と言って、周りのみんなを一人一人さして,意見を言わせた。

みんな,「がんばってきてる人に、そういう事は言ってはいけないと思います」とか「ひどいと思います」(俺の言った事が)とか、そんなのばかりで臭いと言った人はいなかったりして,実は嫌われてたのは俺の方なのか(笑)その場では俺がちょうどいい非難の的になった気がした。

別にその事が、俺にもネギのやつにも、そのクラスにも尾を引く事はなかったけど,とりあえず,次の日そいつの首のネギは新しい物になった。
そしてなんか,タバコの分煙や携帯とかのマナーの話とか、酔っぱらって裸になって逮捕とか,メディアがどうとか、、、生きてるといろんな事を感じるけど、分かんない事は多いなとか、人や世の中の事考えると、なぜかあのネギの事をたまに思い出したりして。

04/06/2009 「話にならない」と「話が合わない」
話にならないのと、話が合わないというのは違う。
この前、友達がその人と仲のいい友達のことを、「あいつは自分と違って都会的なやつですかしてて、ある意味、話が合わねぇんだよね。でもなんか腐れ縁ていうか仲がいいんだけどさ」みたいなこといってて、

「そうなんだよ」と思った。
タイプが違う人とは話が合わないとかよくいうけど、何ていうか話というのは本当は、上っ面での好きな映画とかアートとかそういうこととか、流行りものとかテレビとかそういうんじゃなくて、例えば、全然住んでる場所とか仕事とか趣味とか違うとか、タイプが違うとか言ってても、なんていうか実は同じタイプというか、根っこのところで何かについて思っているというか探しているというか、そういう同じことを意識している人同士しなら、全く別の視点や位置からみた、自分が考えてることに対する貴重な情報があったりして密かに「おおっ、そうか〜」とか思うことがあったり反対の事言ってても実は共感してたりして、いいと思ったりね。

話にならないというのは、何ていうか、相手を馬鹿にしてたり上っ面だけで話をはなから聞かない人とか、自分の言いたい事とか理屈を何の根拠かいつまでも正しいと言って、相手の話が反論ならもうそれ以上言わせないように、浅い世の中の常識とか持ち出して、その人の知識の小いささとか、テレビが言ってる一般論とか盾にしたりして、自分が正しいとか人をうち負かしたいとか、はずかしげもなく馬鹿丸出しに気がつかない人とかが相手のときというか。なんか安いディベートやって、エリート気分になってるっていうか。

程度の低い事や言い訳を言うつもりはないけど、物事、上っ面じゃないというか、、
世の中もテレビとか、インターネットとか、ニュースとか、ゴシップとか、上っ面っぽい部分や、そんな事もおおいように感じたり、そんなだから、みんな上っ面で自分をみられちゃうと思って、自分の上っ面を当たり障りなくよく見せれるようにがんばって、それに過剰にエネルギーとられちゃったりね。それで深い部分見失ったりね。

何も上っ面の体裁整えるのが全部悪いというのではなく、コミュニケーションとはそんな浅いものではないというか、深く物や人を見るというかそこでコミュニケーションするというか。

誤解はつきものだけど、時には、深く差し込む話や、悪口とかは、世の中で言うところの真剣とか誠実という言葉と並ぶくらいに大事な気がしたりね。

でも最近、世の中の感じとして、深いとこで見ないで、おもしろおかしく、というか厳しく、深いところの意図はわかるような事なのに、揚げ足とったり言葉尻でとらえて大事にしたり、そういうの感じたり。

でも例えば、モンスターペアレンツとか、モンスターがつくような人たちを相手にしてる人たちには、そんな簡単な事じゃないと言われてしまうかもとか、そんな事もふと浮かんだけど。

しかし、コミュニケーションとは、単に言葉とかテクニックではなく、心とか想像とか思いとか、なんか目に見えないような、そういうものでとっている割合が高いと思ったりした。

しかしこういう事もっと、楽しいというか、、別に軽く書くつもりはないけど、もっと厚かましくないようにというか、重苦しくない字面で書けないのだろうか俺は。書体を丸ゴで見てもらうとか。
明朝とかで見られるときびしい!

03/28/2009 退屈こそ
最近、懐かしい人とか、人がよく来てくれたりして、最近話したくなっている同じテーマというかそんな事を、みんなとそれぞれ長話する事が出来て、みんなの深みや自分の考えてる事、話す事の大事さというか面白さをすごく感じたり、そんな感じでした。

先日はSHINDOライブがあったりしました。しばらくぶりに見に来てくれた友達もいて、たまたまそのあと家にきてくれたので、細かい俺の聞きたい感想や、音楽や物事や人や、人や物の内面と言うか、俺の思う所の深いというか繊細な話が出来ました。ありがとう。

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それで、
先日は、なんか友達が、その友達の友達の子供が、休みの日もグウタラしてて無気力だから(笑、大きなお世話)何かさせたいという事で、みんなで手芸部とかいって工作教室みたいな事をしようということで家にきた。

別に無気力でもなんでもない、ヒップホップダンスもたまに習ってるとか言ってる、小さくてちょっと生意気なかわいい小学生の女の子が来た。

皆さんそれぞれ財布作りたいとか色々あるみたいだけど、その女の子は何するかなと思って、 なにやる〜?、、、えーわかんない ってとこから入って、みんなテキトーな事言ってるうちに、動物園が作りたいって言い出して、彼女はそれをする事に。

なんか今の世の中、積極性がどうとか自主的にどうとか、みんなを引っ張ってく人間がどうとか、仕込みというか計画というか先に脚本を作っておく的な事の方が、重要視(これも大事な事だと思います)されてる感じがしてるんだけど、(別に怠けもんの負け惜しみとかじゃなくて 笑)もっと、空き地のドカンの上で、、なにやる?〜、、わかんね〜、、、というかんじの退屈の象徴のようなやり取りから、というか、退屈こそ、発想と言うか思いつきの母と言いますか、面白い事でも、いつもと同じ事で2匹目のドジョウ狙うんじゃなくて、、、そういう事が今の社会には必要なんじゃないか(笑)とか。

そんな感じで、その辺にある材料とか道具並べて、いじくって、なんかやってちょっと見せたりして、紙になんか描いてみればとかいって、好きにやってもらって、そのまま俺、しばらくどっかで寝ちゃったりして、、起きたら、、ウサギが出来た、とかいってて。

途中、ちょっとは手伝ったけど、これ使ったら、とか言って、接着剤とか材料を置いたりしただけで、、しばらくして着々とアイテムが出来てきて、、
良いじゃん良いじゃんて感じなんで、写真に撮ろうという事で、ちょうどこの前、終わって撤去してきたショーウインドーの壁とか台とかあったので、それ使って、作ったものを好きに並べてもらって、写真とりました。

なんかサルが、カニから柿じゃなくてリンゴをずる賢く取ってきて、ウサギはカメに勝ってきたけど、お互い無関心で、ただそのまま時間のないとまった世界に花が咲いてズームアウトしていくような(笑)
まあ、そんなのどうでも良いけど、なんかシュール(古い言い方!)で良い感じ。

そしたらお母さんが、それを夏休みの宿題に使いなさいとか言って(笑)今、学校では夏休みの宿題とかは、ズルする子がいるから(べつにいいけど)、宿題とかホントに作ってるかどうか、作ってるところとか写真にとってもって行かないと駄目とか言ってて、急遽服の袖をめくって夏に見せかけて、作ってる所の写真とったりしてた。(笑)
そういえば、中学のとき、普段は字も汚くて絵も下手だけど、休み明けの宿題の絵とか書き初めは、大人顔負けの出来な、画家の息子がいたな。

あと、いとこが昔、夏休みの宿題の絵を、何年も毎年同じ絵を出しててばれなかったんだけど、3年目に出したとき、急にコンクールに出されて、どこかで賞を取って新聞に載ったと言ってた.まあ人の評価なんてそんなもんか。
小学校とかの評価のレベルって言うのは(生徒の能力のレベルじゃなくて、先生の評価能力のレベル)っていうのはどういう感じにできてるのだろう?なんて。

まあそんな感じだけど、夏休みまでにはもっと別の面白いのとか思いついたり、作ったりして、そんな写真は使えないんじゃ、(笑)なんて思った。

03/16/2009 それぞれ
なんか、なにかっていうと「それは人それぞれだよね」、とかそういう話で終わりになる事があったり。

実際そうなのだけど、なんか、人は人、自分は自分というか、それは悪くないのだけど、

なんか人とぶつかるのをさけてたり、人を見下してたり、人はどうなっても良いとか自分が良ければ良いとか、そういう感じも感じられたり、
そんな人に干渉するものじゃないと言うか、そういうこともあるしそれはわかるし、
また、ちょっとの話で真意を伝えたり、理解してもらう事が無理そうな話のとき、それ以上聞かないでくれというか、その話題はやめようと言うか、そんなに浅く話すものじゃないと言うか、こんな席でそのときそんな事は話したくないとか色々ね。また、相手の事や物事や空気を良く分からず、話したりも駄目だしね。
別に人それぞれねという事で話が終わるのは、何も悪くないのだけど、何でもそれで終わらしちゃったり、ごまかしちゃうのもなんかね.と言うけど、何の物事かにもよるんだけど、まあそれで終わらせる方が平和と言うか、別に変にほじくる必要なんてないし。

まあそういう事を堂々巡りして色々経験しても、結局もとの位置に戻るのだろうけど、そのものごとの程度によって言ってもしょうがない事とか、話す価値のあるものとか色々あったりして、はなからそれで話を終えるのはどうかなとも思ったり。まあそれを判断するのも人それぞれという事なんだろうけど。

ある事について、人は自分の宇宙で物事を見つめ、外には出さなかったり、でもある事は野暮でもあえて外に出して言葉で問いかけてみたり。
まあ、それを表現するのは本来、別に言葉ではなかったりもするのだろうけど、別に幼稚で馬鹿で、精神的に弱くて不安や愚痴や文句を言ってるわけではなく。

最近、ある人が、生活とかいろんな人とのある事で、「人がどうやってても、そんなのほっといて、自分たちだけが良ければ良いという風に考えてる事があったけど、そうじゃないなと思う様になった」といってたのを聞いて、、
別に俺が、人のために以前から色々考えたり行動してるわけでは、全くないけど、なんかその人がそんなことを言うのを聞いて、、、うまく言えないけど、なんかうれしかったと言うか.なんか変な文だけど。
変だから深追いして書かないけど、、、一瞬、良い気がただよった。

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