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実に久々の更新。 2ヶ月ぶりのようです。 なんだか、1,2ヶ月なんぞあっという間に過ぎてしまう。 意識の中ではあっという間の2ヶ月でも、実際2ヶ月生きているわけで、その分金も出て行く。 精神的には結構な充実感のある2ヶ月だったが経済観念の欠如した人間としてはナカナカ厳しい2ヶ月だったわけでして、 そしてまだそれは続いているわけです。 6,7年前ならば、こんな金がらみのことなんぞ面倒すぎてさくさくと死に向かって堕落していくところですが、ここんとこそういう感じでもないので(って、軽すぎるか)先を見据えようとするわけです。 仕事をしても即金になるわけではないのが当たり前の仕事なわけだし焦っても仕方が無い。 土も耕さないうちにパラパラ種まいても育ちゃしない。 遅ればせながら、やっとこさ耕し始めたわけですよ、いや、気付くの遅かったけど。まだ間に合うかなってさ。 前から偉そうに語ってたアートで飯を喰うって事の為の畑をやっとこさね。 もともと持論として持っていた(いや、師匠の受け売りか?)考えに、どうやって乗っていくかが見えなかった。 ランドスケープで街中に彫刻やらなんやらアート作品を置こうが、美術館を作ろうがアートに対しての日本人の考え方は変わりはしない。 まずは個人レベルから認識をかえていかなきゃだめだ。 個人個人には、この、なくなったってどうでもよさそうなアートに対する渇望は実は潜在的に存在していると思う。 そうでなければ、物々交換が主流であったころに美しいと言う理由だけで金やら輝石が交換の対称になるはずも無い。 別に冷静に考えれば金やらダイヤなんて食えるわけでもないしなんかに使えるわけでもない。それでもありがたがってるわけだ。 気持ちを豊にしてくれるものってのは要求されてるってことだ。 アートも間違いなくその分野に存在しているのだが、使い方と言うか存在のさせ方が、受け取り側に理解されてない。 ヨーロッパあたりの方がその存在させ方を理解している。 それは何故か。 アートが個人レベルから吸い込まれているからだと思う。 日本で一軒家を建てる。 隣と違うものにしたがる。 とにかく違うものになる。 ちぐはぐになる。 街としてはわけのわからないものになる。 ランドスケープ的にはひどい結果になる。
要は本物のに対する認識の低さと敷居の高さが邪魔をしているのだと思う。 アートの生産者とそれの受け入れ側とにとんでもない溝がある。 同じアートとくくられる音楽にどんだけの敷居の高さがある? 彫刻、油絵、日本画、何故同じ位置に存在できないのか。 同じでいいじゃねえか。なりたくない奴らが溝を掘っている。 投げる側と受け取る側でお互いに線引きをしている。 これじゃあ喰っていけるわきゃあないわな。 ・・・と、いうわけで、ずっと個人攻めを考えているわけです。 巨大な野外彫刻もいいですが、まずは冷蔵庫のように一個人の家の必需品にしていきたい。 個人の意識が高まれば、その集合体の街が変わる。 市民の意識が高まれば市が変わる。 県も変わって国も変わる(飛びすぎか)。 ま、要するに、アートは怖くないよ、ってこと。 もっと受け入れていこうぜ。 というか、受けれさせるものを創っていこう。 切り口に斬新さを求めるのはやめて、普通のところにこそ自分の力量をぶつけたい。 既製品と作家モノのニュアンスの違いをわかって欲しい。 そこでこそ物の力の違いがわかるはず。 ああ、書きすぎた。 そして何かいてるかわかんなくなってきた。 やはり、こういった何かを伝えたい時は下書きでもするべきなのか・・・・・・・。 まあ、垂れ流しがこの隋想記のコンセプトなんでこれでよしと言うことで。
ちなみに写真は、先日設置してきた、友人新築宅のポスト。 基本デザインはよくあるパターンかな。
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