論文|造形の素材としての映画フィルム

◆◆◆造形の素材としての映画フィルム◆◆◆

◆トニー・コンラッドの『 4X-ATACK 』と、
  『 BOILED SHADOW 』『ザ・フリッカー』について。

 1998年トニー・コンラッドが来日し、作品の上映を行なった際、彼は『 4X-ATACK (1974年16ミリ2分)』についておおよそつぎのように語った“私は、この映画でストーリーが欲しいと思った。映画のフィルムというのは、写真のフィルムもそうだが、“光”によって感光して像を作る。しかし、余り一般的には知られていないが、“光”だけではなく、物理的な力でも「感光」する。私はこのことを知っていた。私は、床に置いたボール状に巻いたフィルムをハンマーで叩いた。バラバラになったフィルムを現像して「編集」した。フィルムを元の形に戻す為にピンセットと拡大鏡を使って三週間かけて作った。ハンマーの痕が残って欲しかった。”
 又、同様に『 BOILED SHADOW (1974年16ミリ3分)』についても語っている。“コピーフィルムは超低感度なので直接日光に当てないと露光しない。フィルムを缶から出し広げてぐちゃぐちゃに巻いた。それを持って外で日光で露光した。そして、熱で、茹でて現像した。”

 トニー・コンラッドの作品では、これら二つの映画より白味と黒味の組み合わせの画像のみで作られた映画『ザ・フリッカー』が有名だ。『 THE FLICKER (1966年16ミリ30分)』について、もし明滅による視覚的効果を得るのが目的ならば、何故他の方法ではなく、“映画”でこれを作ったのか?との質問にトニー・コンラッドはこの上映の時答えている。“当時、映画フィルム以外のメディアで(こうしたものを)作ることは難しかった。そして、映画の既成概念を壊すことはモダニストの夢だった”と。
 映画の既成概念を壊すこと、これはその後作られた上の二作品に関しても共通のテーマだろう。しかし、そこで語られている“映画の既成概念”とは一体何のことなのだろうか。トニー・コンラッドが『 4X-ATACK 』について、ストーリーが欲しかったと言っているのは、ストーリーこそ彼にとってこの“映画の既成概念”の一つと考えられていたからだろう。

 しかし、それだけではない。彼のこれら三作品に共通して現われている“映画の既成概念”に反していると考えられる特徴は、どの映画も“撮影”をしないで制作していることだ。

 『ザ・フリッカー』のフィルム上の実画面、スクリーンの上にあるものは、全て均一な透明または白、あるいは黒(闇)が広がっただけのものだ。フィルムを見ると、まるで素抜けと黒味のリーダーが繋がれているような、一面透明か、一面真っ黒かどちらかがフレーム内に収まっている。しかし、実際には二日間掛けて撮影したものだと言う。注:(1)
 実際の撮影が、どのようにして行なわれたのかについては余り具体的に語られていないようだ。しかし、一般的にこの種の撮影は“コマ撮り”でするのが普通だ。おそらく透過光で均一に照明された白い平面を、露出オーバーにし、更に画面が均一に露光されるようにして素抜けの部分を、そしてレンズに蓋をするなどして完全に光を遮って黒味の部分を撮影する。スタジオの照明を消すだけでも黒味部分は撮影出来ただろう。編集に七か月掛かったということを考えれば、基本的な明滅のバリエーションをこうして撮影し、それらのカットをそれぞれの長さの組み合わせにし、編集したということだろう。こうした撮影によって作ることが出来る画面は、別に撮影して作ることが必須というわけではない。撮影をしていない生フィルムを、そのまま(ネガ)現像すれば素抜けになるし、光にさらした生フィルムを(ポジ)現像しても素抜けを作ることが出来る。黒味に関しても同様だ。トニー・コンラッドが『ザ・フリッカー』で撮影をしたのは、単に編集作業の効率のためだったのだろう。素抜けと黒味の長いフィルムは現像所で買うことも出来る。それらをコマ単位で切り、貼り、編集すれば撮影して作った素抜けと黒味を使って作ったものと全く同じものが出来る。しかし、ひとコマ単位のフィルム片を、正確に真直ぐに、凹凸無く繋ぐのは困難だ。そのために、トニー・コンラッドも実際には撮影される対象が存在するわけではないのに、カッコ付きの“撮影”を行なったのではないかと思われる。

 撮影という行為の中には、普通は写すべき対象が存在する。トニー・コンラッドが『ザ・フリッカー』で“撮影”したかったのは、透過光で均一に照明された白い平面や、暗闇の中にあるが、実際には真っ暗なので写ることはないレンズに被された蓋の裏側とレンズの間の闇、というわけではなかった筈だ。
 何故なら、例えばレンズに蓋をして撮影した黒味も、蓋はしなかったが暗い所で露出が圧倒的に不足で撮影したものも映写(フィルム上も同様だが)画面では見分けることは出来ないからだ。出来上がった上映用プリントが素抜けと黒味であればこの作品でトニー・コンラッドは特に何かを撮影しなければならない必然性は無かった。つまり、『ザ・フリッカー』で撮影は必要条件ではなかった。そうなれば、ほとんどこの作品も撮影をしないで作られたのと同じことだ。撮影するということ、カメラを使って、写真的に目の前の対象を記録することは、“映画の既成概念”とトニー・コンラッドが語ったことと関係するのだろうか? あるいは、一般的に考えられている“映画”というものについての“既成概念”に関係しているのだろうか。

 リュミエール兄弟が発明したシネマトグラフによる最初の上映を“映画”の誕生とするのならば、そのときに“映画”を技術的に成り立たせていたものは、連続的、間歇的な撮影による現実の写真的記録と、記録された写真を連続的、間歇的に投影することで、動きを伴う映写を行なうことだった。それらは、アニメーション、写真術、幻灯等による映写の技術の統合だった。
 連続的、間歇的に記録し映写するのは時間経過を断続的に記録再現するためのものだ。
 写真的に記録するのは、現実を肉眼で見ているのと近い印象で見える(見せる)ためと考えられる。写真に写されたものが、肉眼で直接見ているものと、どの程度似ているのか(或いは異なっているのか)は、拙文『映画が生成する空間と運動』(東京造形大学雑誌第10号A)を参照されたい。一般的に考えられることとしては、写真にしろ、映画にしろ、有る場所で、その場所で撮影された写真や映画を見せられれば、それはそこで撮影されたものだと思う、ということだろう。実際の対象を肉眼で見た時と,撮影されたそれとが同じものであるという関係性が了解されるかが問題なのではないだろうか。なぜなら、二次元の画面上にカメラを使って、と言うことは“線遠近法的”に描かれる空間は、必ずしも現実の三次元の空間を肉眼で見ることと同じではないからだ。

 『ザ・フリッカー』で撮影した対象は、おそらく奥行きの無い、あるいはもし実際に奥行きがあっても、肉眼でもそれを認識出来ない位に平均的な照明がされた白い平面であったのではないか。そして、黒味に関しては完全な闇を撮影していれば、肉眼でも何も見ることは出来なかった筈だ。二次元のスクリーン上に三次元の空間を再現するのは基本的に無理がある。しかし、『ザ・フリッカー』では白味の部分も、黒味の部分も対象と像の間には、対象の三次元的奥行きを肉眼でも認識することが出来ないおかげで、ほとんど完璧と言える程の相似関係がある。しかし、映画制作や撮影について知識のない鑑賞者は、『ザ・フリッカー』で撮影されたであろう対象と、スクリーン上のその像がほぼ完璧な相似関係にあるとは理解できないだろう。注:(2)
 そもそも、この映画ではそうした理解は始めから必要だとも思えない。

 トニー・コンラッドの『ザ・フリッカー』も、『 4X-ATACK 』と、『 BOILED SHADOW 』もいずれも撮影をしていない。映画の誕生の歴史から考えても、トニー・コンラッドが考える映画の既成概念の中には撮影するということが含まれていたのではないだろうか。
 『ザ・フリッカー』の最初の場面では、視覚的刺激によって癲癇の発作が誘発される可能性があるとの警告が現われる。P・アダムス・シトニーによれば、警告の“この書体は、昔のアメリカの縁日で見たミュートスコープに挿入された庶民的なメッセージを思い出させる。”注:B そうだ。このようなところにも、映画の既成概念を打ち壊そうという作者の姿勢と皮肉が窺われる。そのシトニーによれば“コンラッドは『ザ・フリッカー』を作った時、ペーター・クーベルカが1960年に黒味と白味だけで作られた映画『アルヌルフ・ライナー』を制作し、発表していたことを知らなかった。この二つの映画の違いは、二人の映画作家の個性と美学的立場の差異を反映している。クーベルカのそれは劇化の度合いでほとんど勝利を得たといえる。点滅であるのに雷鳴と稲妻を喚起するホワイトノイズと無音の同期したオーケストレーションは、映画の中の情緒的な能力を明確にしようと試みる。・・・”注:(3)
 制作の方法、あるいはフィルムの上の画と音を直接見れば、その技法的成り立ちにほとんど差が無いように見える二つの映画、黒味と素抜け、ノイズと無音だけで、撮影という発想無しで作られた映画も、その目指すところや鑑賞者に与える印象では大きな差がある。『アルヌルフ・ライナー』はシトニーが“劇化や情緒”と指摘している点では、ある種の芸術の古典的伝統を守っているのではないだろうか。“私が実験映画をやっているのではない。彼等が商業映画をやっているのだ。私は、映画を作っているだけだ。”とペーター・クーベルカは語っている。その発言には、映画の既成概念を壊したいというモダニストとは異なる立場が現われているように思われる。しかし、その志向するところがどうであれ、どちらの映画も“映画の既成概念”のうちの重要な部分の一角を占める“撮影”という要素が無い。

 “撮影しない映画”は、なにも素抜けと黒味だけで作られているのではない。トニー・コンラッドの『 4X-ATACK 』と、『 BOILED SHADOW 』も、黒味と素抜けを編集するのとは異なった制作方法による“撮影しない映画”だ。『ザ・フィリッカー』と『 4X-ATACK 』と、『 BOILED SHADOW 』との間に制作の方法論で何らかの相違があるとすれば、一方はかなり偶然性を排除する形で制作され、一方は偶然性を積極的に取り込んでいる。“撮影しない映画”の制作手法はこのように同じ作家でも異なっているし、勿論、作家によってもその技法は多彩だ。

◆ハリー・スミスのフィルム面への直接描画で作った映画

 ハリー・スミスの『 early abstractions 』では、フィルムに直接描画する方法でアニメーション作品が作られている。フィルムに直接描画でアニメーション・フィルムを作ったということではレン・ライやノーマン・マクラーレンが有名だ。しかし、ハリー・スミスが『 early abstractions 』の最初のほうの作品を制作していた頃、ハリー・スミスはレン・ライが作った作品のことは知らなかった。“それはフィルム・ナンバー1です。1939年から1942年にかけて私は何かをやっていました。少し経って私は、レン・ライが既にそうしたことを、やっていたというのを知って大変がっかりさせられました。・・・”注:(4)
 作品の表現や、あるいは目指すものが異なっている以上、たとえ似たような技法を使って制作されていようと、がっかりすることもないと思うのだが。ハリー・スミスの直接描画によって作られたアニメーション・フィルムは、初めは音楽との同調、あるいは音楽に合わせてジャズ・ハウスで上映されていた。音を視覚化する試みということでは、レン・ライと共通するところがあるかも知れない。
 ハリー・スミスはアダムス・シトニーとの対談で自らを画家だと語っている。確かに、『フィルム・ナンバー1、2、3』等はフィルム上に直接描かれた抽象画を見ているようだ。“ハリー・スミスが“映画”を作ろうと思ったきっかけは、サンフランシスコの美術館で“アート・イン・シネマ”という催しが行われた時に、出品されていたジェームス・ホイットニー、オスカー・フィッシンガーらの映画に衝撃を受けたからだった。制作の機材も、経験も持ち合わせていなかった彼は、フィルムに直接描くことを発明した。”注:(3) 彼が発明した直接描画の技法は、『フィルム・ナンバー1』ではインク瓶のコルクの蓋で染料を捺印するものだった。『フィルム・ナンバー2,3 』では粘着テープ、ワセリン、染料等を使う“ろうけつ染”と呼ばれるものだった。ハリー・スミスによれば “ナンバー1は色々なもの、例えば切ったゴム、あるいはインク瓶の蓋等を押し付けることで制作した。全ての循環する形態はこれに由来する。ある種のコルク栓の先端がある。これを、インクに浸してフィルムに押し当てた。その後インクとペンで補足して全部を完成させた。にもかかわらず、この映画の色はそれほど良いものではなかった。当時、私は他にも色々なことをやっていたので、この作品の制作にどの程度の時間をかけたのか覚えていない。私は、作品のプリントを全く取らなかったのでこれらの映画はどれも同じように重要だった。今では、おそらく半分以下の物しか持っていない。”注:(4) ということだ。35ミリ幅フィルムだったとはいうものの、当然手仕事で捺される消しゴムやコルクの版(印判)は一回毎にそのインクの付き具合や、捺される場所が微妙にズレる。映写された画面上で見ると、そうした一コマ毎の画の仕上がりの差異が全体的な幾何学形態の動きとは別の小刻みな動きや模様を造り出している。一般的なアニメーションに於いては、こうした“不規則な動き”はできる限り排除されている。
 ふつうは、観客がスクリーン上の画面を見る時、それがフィルム上の色付きの濃淡のシミ、そのシミが映写機のランプの光でレンズを通しスクリーンに投影されているということは、忘れさせる方向で映像が作られる。これは、必ずしもアニメーションだけのことではなく、“実写の映画”においても同様だ。フィルムに傷がついている時、突然“スクリーン上に今見ているものは何か?”が、スクリーンを見る者の前に現われる。
 アニメーションにおいては通常“滑らかな動き”を画面上に造り出すため、ロトスコープやモーションキャプチャーのようなものが生み出された。そうした技法を支えているのは“自然の動き”に“アニメーションで造り出した動き”を、なるべく近付けたいという欲求ではないだろうか。“自然の動き”とは、自然界の動物や自然現象等の、現実に存在し、また見ることが出来る動きだ。多くのアニメーション映像は、そこに現われるものが実際に存在する動物や人間だけでなく、恐竜や、怪獣、のように生きた形では存在しない、あるいは想像上の生き物であっても、現実に存在するものの動きを参照している。アニメーションの技法書等でも“アマチュア画家の多くが、基本のデッサンからはじめたようにアニメーションもすべての自然の動きを学ぶことが大切です”注:(5)と語られたりしている。“自然の動き”を参照して“アニメーションの動きを作る”というのは、一種の“自然主義的”な考え方だろう。このことは、“映画”が、現実の動きを間歇的に分割した画像として記録し、間歇的、連続的に映写することで現実の動きと似た動きの錯覚をスクリーン上に造り出すということと同じだ。ハリー・スミスの『フィルム・ナンバー1 』で図形(模様)の動きは、非常に狭い画面に直接手仕事で図形が捺印され、さらにそれが手描きのペンで仕上げられているために、“滑らかな動き”とはやや異なったものとなっている。

 『フィルム・ナンバー2,3 』ではいわゆる“ろうけつ染”の技法がフィルムの上に直接展開されている。そのやり方はハリー・スミスによれば “ディック・フォスターの紹介で入手した小さな丸い粘着テープ(カム・クリーンガム)で作りました。それは、一種の糊の付いた小さな丸い紙です。まず、フィルムに湿り気を与えるために筆で一面塗ります。そして、スプレーでフィルム上の色を保護します。フィルムが乾いたら、全部にワセリンを塗ります。もちろん、これは短い部分です。おそらく6フィートくらいでしょうか。いずれにしても、それらのフィルムはピンでとめられていました。そして、毛抜きで小さな丸い紙を剥がします。もちろん、それらが貼られた時そこは乾いているのです。そして、色の部分はワセリンに保護されています。小さな丸い紙が貼られた所へ、スプレーで色が塗られます。乾かした後、フィルムを四塩化炭素で洗います。その次の作品は、マスキングテープをフィルムの上に貼ることで作ったのです。定規を使って剃刀でそれを切ります。そして、至る所に回転しているこの小さな四角を全て剥がすのです。私は、このフィルムとほとんどコンスタントに5年間、少なくとも毎日関わっていました。”注:(4) とある。いわゆるろうけつ染と同じではないが、フィルムに染料をはじくワセリンを塗り、その部分に色を着けるというのは、鑞等で染料が浸透しないようにするろうけつ染と似ているかも知れない。いずれも、糊の付いたテープで色を着けるところ、着けないところを丸、四角等の細かい図形で区分けをして、染料で染め分けるという方法だ。実画面上で2−3mm程度の四角形や円形を、カッターナイフで正確に切り取り、フィルム上に貼りつけられた状態のそれらを、ピンセットで剥がしていくというのは確かに時間のかかる作業だろうことは、想像出来る。突然何か月もうっちゃって置いたこともあったというが、それでも5年間もこの仕事に関わっていたのだ。
 ハリー・スミスはこうした直接描画によって制作するアニメーション・フィルムをどちらかと言えば止むを得ず作っていたのではないだろうか。その後の作品では、カメラを使って撮影する作品を制作しているが、少なくとも初期の直接描画アニメーション・フィルムを作っていた当時、自由に使えるカメラは、ハリー・スミスの近くに無かった。もっとも、その後カメラを使用するようになっても、自分のカメラを持っていたわけではないらしい。しかも、他人のカメラを借りて、それを勝手に質屋へ入れてしまったりした、とシトニーとの対談で語っている。
 レン・ライがハリー・スミスより早い時期に既に直接描画によるアニメーション・フィルムを制作しているのを知って、ハリー・スミスががっかりしたのは、彼自身がその方法の発明者だと思っていたからだろう。そして、その発明が、映画というどちらかといえば当時も工業技術に依存した表現分野を、手工業的、手仕事で制作したということと関係があったのかも知れない。
 ハリー・スミスのアニメーション・フィルムは、その後カメラが使われるようになると、伝統的なアニメーション技法をいろいろ取り入れるようになる。それは、アニメーションだけで無く、実写による抽象形態、例えば窓の撮影や、手持ちのカメラを動かして画面の図形(露出オーバーの窓等)に動きを付けている。そのようにして実写のカメラワークで作る画面上の図形の動きと、フィルムへの直接描画で作られた画面上の図形の動きとではその“滑らかさ”において決定的な違いがある。実写で撮影している時、カメラをどう動かしたとしても、カメラのコマ送りは常に、正確な等間隔の間歇運動となっている。もちろん、その正確さは、カメラにどういった種類のモーターが使われているのかによってばらつきがある。とはいうものの、いくら手持ちとはいえ、その手の動きも“滑らかな動き”となるように操作されているようにスクリーン上の画面からは見受けられる。そうした意味では、直接描画作品でも、基本的には“滑らかな動き”が追求されていたのだろうと想像することが出来る。それは、画面に、意識的に非連続的な動きを入れたと思われるようなものが現われないことからも考えられる。しかし、21mm×15.3mm(35mmフィルムの場合)の映写実画面(規格によって多少異なる)の中の2 ̄3mm程度の大きさの図形を、正確に“滑らかな動き”にするためには、この極小の画面の中で図形をミクロン単位で正確にずらしていく必要がある。また、前のコマと正確に位置合わせをして図形をずらしていかない限り“滑らかな動き”を作ることは出来ない。フィルムNo1 ̄3では、この“滑らかな動き”で、図形に動きを付けるために、驚異的な手仕事の技が発揮された。そして、これらのフィルムでは、ほとんど人間業とは思えない正確さで図形が画面内を飛び回る。しかし、それでも、動画用紙やタップ、ライトテーブルと言った描画や位置合わせの道具を使ったものとは異なっているように思う。それらの一般的に考えてアニメーションの動きを考える際どちらかといえばマイナスの要因が、ハリー・スミスの直接描画によるアニメーション・フィルムでは、プラスの要素になっているのではないだろうか。偶然によって作られるほんの僅かな動きの違和感、フィルムに直接彩色されているためそのむら、あるいはしみが数百倍に拡大されたコマ毎のそうした無数の偶然によって作られた画像の要素が、フィルム全体の“表現上の豊かさ”となっているのではないだろうか。元来は絵描きだと言う作家が、フィルムをカンバスにして描いたコマ単位の“絵画”は映写機の間歇運動と、ランプの光でスクリーンの上に“動く抽象絵画”以上の、造形的映像を創出する。

◆セシル・フォンテーヌの、台所で作られたファウンド・フーテージ映画

 PR映画や、産業映画、宣伝映画そして素人によって撮影されたいわゆる“ホーム・ムービー”等の既存の映像を再利用しながら、セシル・フォンテーヌの映画は、撮影や現像と言った映画フィルムの画像生成に必須と普通は思われている要素を一切使っていない。ハリー・スミスのように、フィルムに絵を直接描画で描いているわけではないのだが、ほとんどその仕事のやり方は絵描きのようだ。画像は、いわゆるファウンド・フーテージなので、既存のフィルムから“盗用、流用、剽窃、横領、着服、・・・”している。しかし、多くのファウンド・フーテージ映画作品と大きく異なっているのは、フィルムから画像だけを、正に字義通り直接別のフィルム(ベース)上に持って来る所だ。セシル・フォンテーヌの作品がファウンド・フーテージという範疇で語られるとしても、その作品を成り立たせている映像が、他の同じ脈絡で語られる作品と大きく異なるのはこの方法の独自性による。既存のポジ・プリント・フィルムの乳剤面を両面テープで剥がし、それをそのまま、用意した別の(乳剤を剥がしてあった素抜け)フィルムの上に貼付ける。あるいは、フィルムの乳剤面をアンモニア等で柔らかくし、ナイフ等で剥ぎ取り、別のフィルムの上に貼付ける。セシル・フォンテーヌ映画の手仕事によるこうした画像生成作業が驚異的なのは、例えば三層に分かれているカラーの乳剤層を、剥がし分けて、画面に現れる色が変わっていたりすることだ。偶然に大きく左右されるであろうその剥がされた形や、大きさや、色を絵画的に組み合わせることで彼女の“コラージュ”による映画が成り立っている。“実際、セシル・フォンテーヌは異なったカラーフィルムのエマルジョン層を、輪郭のぼやけた色付の極薄のレースのように採取する。彼女はそれらの極薄のレースをフィルムベースから分け、映画を時間軸の順序に従って編集する前に、グラフィック的手法で、空間に幾つも絵を描く様にしてまとめる。”注:(6)

 多くの、いわゆるファウンドフーテージ映画が、元の映像をカット単位ではそのまま使うことが多いのに、セシル・フォンテーヌの映画では、その画像が剥がし取られる時、既に偶然的な変型が行われる。勿論、それを別のフィルムベースに貼り直す時には、フレームラインの微妙な位置合わせや、左右のズレやそうした諸々の偶然や、それによって生じるズレが画面上に、実写の映像が元になってはいても、元の映像とは全く異なった新たな、別の映像となって現われる。これは、一つには剥がし、貼る際に、元の映像を完璧な形で移し替えることが出来ないことによる。両面テープ等で剥がされる時の抽象的な微妙な輪郭線が、映写されると、一方で“再現的”な映像がありながら突然それが抽象的輪郭線を境界にして、消失しているのは、撮影時や編集時に行われるどのような特種効果とも同じではない。元の映画の、画像が生成された乳剤面が、フィルム・ベースから強引に引き剥がされる時、複数の色の層が斜めに引き裂かれるので、輪郭には不思議な色の等高線が生まれる。この等高線が映写の際には画面上の抽象模様となって不思議な色と形態を展開する。
 二つ目には、“コラージュ”されるのが、必ずしも一コマのフィルム(ベース)上にたった一つのフーテージというわけではないからだ。ヤン・ボーヴェはセシル.フォンテーヌの代表作『クルーズ』について次のように述べている“この映画作品で彼女は、二つのノルウェーの遊覧旅行の宣伝映画のサウンドトラックを、道標の糸として扱う。部分的に引っかき、削りとる技術で重ね合わされ、彼女は、彼女がいつもやっているモノクロームの日記映画と1920年代と1940年代の喜劇映画の上に施された“エマルジョンのコラージュ”この色付の幽霊のような原型を、残された黄色の上に重ね合せる。剥離は不変ではない。写実(写真)的な破片はこの遊覧旅行の筋の展開のなかに出現する。異なった質の要素の並置は、商標としての縞模様や刻み目による騒乱を生成する。”注:(6)

 『クルーズ』に限ったことではないが、セシル・フォンテーヌの映画では、グラフィックな観点から選り分けられた映画の画像が、素抜けベースの上に何重にもコラージュされる。それらコラージュされる“輪郭のぼやけた色付の極薄のレース”は、やはりグラフィックな観点から再構成され張り込まれる。そして、使用するフーテージを見つける(ファウンド・フーテージ)時以外は、彼女の映画制作のすべては、家の台所で行われている。光学のサウンド・トラックさえも再利用(リサイクル)してしまうセシル・フォンテーヌ映画には、カメラや現像所だけでなく、録音スタジオも録音技師も、声優も音効も不要なのだ。セシル・フォンテーヌの映画では、トニー・コンラッドやハリー・スミスの映画同様、映画フィルムを直接造形の素材として扱うことで、映画産業とは全く別のやり方で、それも、全くと言って良い程金をかけずに“映画”が制作されている。

 セシル・フォンテーヌの、フィルムを造形の素材として直接扱う、じかに加工する映画制作の方法は、彼女の映画における表現と当然のことながら緊密に結び付いている。作家本人の意志とかかわり無く、ここで作られた“映画”が映画として成立するのは映写された時だ。確かに元のフーテージは、撮影されたり、録音されたり、そして編集やプリントと言った一般的に考えられる“映画制作”に於ける“普通のプロセス”が行われている。しかし、一旦そのようにして作られた“映画”も、物理的にフィルム・ベースから引き剥がされ、新たなフィルム・ベース上に張り込められると、それはもはや元の映画の画像が造り出す映像とは異なっている。偶然に、あるいは意図的にずらされたり、重ねられたり、あるいは突然消滅してしまう画像は、映写機に掛けられてスクリーン上に投影された時まったく新しい“映像”あるいは、“抽象と再現的映像の中間的な何か”として現われる。そこでは、複数の画像がコラージュされることで、個別の画像に存在していた線遠近法的再現空間が混乱する。とはいうものの、使用されているフーテージがカメラを使って撮影されたものである限り、各々の画像は再現的リアリティを持つという奇妙な空間が出現する。この奇妙な空間表現は、カメラを使い、撮影されて作られた映画のフーテージを使う“ファウンド・フーテージ”映画ではあっても、直接フィルム(のエマルジョンだけ)を引き剥がし、引き裂き、貼付けるという造形的手法で生まれた。
 ピエール・フランカステルは『絵画と社会』の中で、ルネサンスの線遠近法的空間表現がそれ自体で真実なものではない。と言っている。彼によれば、“空間は人間の経験そのものなのである。とくにユークリッド的なある種の遠近法が、われわれに真実の完全なイリュージョンを独りでに与えているかのように表面見えるのは、何世紀もの因襲が、われわれの数学的・視覚的能力を開発させようとして教育に用いられてきたある種の表現記号を受け入れやすくしてきたという理由によるのである。”注:(7)
 絵画が歴史的にこの“教育”に携わってきたのは勿論だろうが、その後同じ線遠近法的空間表現として登場するのが写真と映画だった。絵画は線遠近法的空間再現のためにカメラオブスキュラを使うが、その後写真術が、線遠近法的空間表現を直接画像として生成させることを可能にした。カメラを使っつて二次元上に描かれた三次元の空間が、現実のそれと同じように見えていると思うためには、常に線遠近法的空間表現を、現実の空間の再現であるというように受け入れる前提が必要だ。こうして、線遠近法的空間再現を当然のあり方として受け入れて画面に向かう観客は、セシル・フォンテーヌの混乱した線遠近法空間映画で、映画に於ける空間のあり方がたった一つの真実によって成り立っているのでは無いことを“教育”される。

◆メタムキンと手工業的映画制作

 フィルムによる映像の二人と、音の一人、合計三人のメンバーによるパフォーマンス・グループ・メタムキンの日本で初めての公演が、2001年東京で行なわれた。16ミリ、8ミリの映画フィルムを複数の映写機を同時に使って映写し、アナログシンセサイザーや6ミリテープレコーダー等を操作しながら出される即興的な音と共に“映写/演奏”するのが、彼等の言うところの“ライヴ映画”だ。東京で全部で6回行われた彼等の“パフォーマンス”公演で、“上映/演奏”されたものは各回全部異なったものであった。これは“パフォーマンス”あるいは“ライヴ映画”であれば当然と言えば当然である。しかし、“パフォーマンス”とは言うものの撮影されたフィルムの映像と、録音された音素材は事前に用意しなければならない。そうなると、毎回異なった“パフォーマンス”を行なうのはことのほか難しいことが分かる。とはいうものの“パフォーマンス”のなかでは、映写中のループ・フィルムを映写しながら現像(正確には反転現像における第二露光と漂白処理)するという離れ業で“ライヴ”の一回限りの臨場感をいっそう盛上げている。

 彼等が映写に使うフィルムには幾つかの種類がある。撮影されたものと、撮影現像された映像がさらに加工され、あるいはそれが再撮影され、あるいは染料で着色され、又コマ速が再撮影で変えられたもの等だ。
 こうした加工は、前述した上映中の現像のようなものもあるが、基本的には“パフォーマンス”の準備段階で事前に用意される。彼等は、この上映用のフィルムの撮影、現像、光学的、化学的特殊効果処理、などをするために自前の映画フィルム用の現像所を持っている。

 彼等がパフォーマンスで映写している映画フィルム、上映用“ポジ・プリント”は、基本的には伝統的な映画産業が“劇場用映画”を制作するのと、ほとんど同じような行程を経て制作されている。つまり、カメラを使って人物等が撮影され、撮影済みフィルムが現像され、そこで得られたネガあるいはポジが、場合によっては更にオプチカルプリンター等を使って光学的な加工が、あるいは化学薬品を用いて化学的な加工がフィルムに施される。今日の映画産業が行なうやり方と違いがあるとすれば、メタムキンのフィルムはそうした全行程がほとんど分業されずに一人、あるいは数人で作業されることだ。そして、そうした作業の際に、映画フィルムの現像処理過程で行なうことが出来ると考えられるあらゆる可能性を実行しているということだろう。
 映画はもともと、手工業的な制作環境の中で生まれた。シネマトグラフも当時の科学技術の結晶であるかも知れないが、その見え方は手工芸品的だ。リュミエール社の技師が、撮影だけではなく現像や映写まで行なっていたことを考えれば、映画の基本的な技術は手工業的なものだったと言ってよい。メリエスのスター・フィルム社でも、フィルムは女性の工員達の手で一コマづつ着色されていた。
 今日の映画産業では、仕事は細分化され、各々を専門家が分業するような業態になっている。これはどちらかといえば経済効率、それも同じ品質の大量のプリントフィルムを、世界中で同時に上映するための効率でこのようになっている。もし、こうした経済効率優先の、映画産業の現像所で、たった一本のプリントを納得がいくまで処方を変えながら処理しようと思えば、受け付けてもらえないか、莫大な金額の請求書を突き付けられるかだろう。
 一般の、映画産業の現像所は、業界に流通する一つの共通の基準に従って、いつでも誰が発注しても同じ結果が出るように作業をするからだ。これは例えばカラーチャートのような、基準になる指標が、いわゆる“標準”的な露光で撮影されている時、いつも同じ現像結果、同じプリントを上げるということに他ならない。そうなると、そうした基準から外れていくものは、あるいは事故、あるいは現像の失敗等の扱いとなる。また、例えば、現像液を40度にして処理しているラインで、フィルムを一本だけ50度あるいは、30度で処理して欲しいと言っても、普通そのような注文には応じて貰えない。
 このような映画産業の、いわば当たり前の経済効率を優先した制作のあり方までも問題にしたために、メタムキンは自らの現像所を作ることになった。

 “メタムキンの映像担当の二人、クリストフ・オジェーと、グザビエ・ケレルは1988年、メタムキンのパフォーマンスで映写するためのフィルムを自分達で現像することを決意した。”と、あまり多く無い彼等の資料には書かれている。メタムキン自体は1987年から活動しているので、活動開始から一年で自分達の映画フィルムを、自分達で現像することを決めている。その後ずっとメタムキンと映画フィルムの自家現像所の活動が平行して行われていることを考えれば、この二つは一体不可分のものと考えられる。

 自前の現像所でしか出来ないようなフィルムによる映像とは、例えばどのようなものだろうか。2001年東京での公演で彼等が映写したフィルムの中には、映画産業の現像所では絶対に行なうことは不可能だろうと思われる幾つかの映像があった。

 人物(おそらくメタムキンのクリストフ)がフルサイズで撮影されたものが、コマ単位で色フィルターが掛けられてオプチカルプリンターで再撮影された映像は、映写画面上では色が混ざり合いコマ単位ということを一瞬忘れさせてしまう。映像はレンズに向かって歩み寄ったり、離れたりする人物が連続した動きで撮影されている。つまり、歩いてレンズ前で寄り引きをくり返しているワンカットだ。しかし、この同じカットの、一連の連続するコマにコマ単位でフィルターによって色が着けられている。オプチカルプリンターを使う処理としてコマ単位での“カット表”で発注すれば、あるいは現像所によっては作業するかも知れないが、一体いくらかかるだろう。

 レチキュレーションをわざわざ発生させたフィルム。これは、人物がモノクロームで撮影されている映像らしいのだが、乳剤面が一面しわしわなので判然としない。このしわしわは、一般的な現像(所)の発想では事故の類いであるから、注文して出来るものではないだろう。化学的、物理的力で生じる偶然的なしわによって出来た画面上の模様は、ドリップ、スプラッシュによるポロックの絵のようでもある。クリストフは“最近のフィルムは性能が安定していて、このような〈効果〉を造り出すのは非常に難しい”と語っている。彼等が作業のために設立した現像所アトリエ M T K にアグファの暗室作業マニュアルが置かれていたのは印象的だった。アトリエのエチエンヌ・ケールは“これを参考にしながら、こういうことをやってはいけない、と書いてあるものを端から試している。こうすると失敗すると書いてあることをやってみている”と語った。このやり方を普通の現像所に求めるのは無理だろう。

 そして、現像処理の工程も表現の中へ取り込んでしまったのが、現像しながらの上映だった。そのやり方は、まず反転現像するモノクローム・フィルムを、第一現像だけした状態で映写機に掛ける。映写機で第二露光を乳剤に与えつつ、漂白処理を映写しながら行なう。具体的には、漂白液を映写中の暗闇の中で綿棒に付け、それでフィルムを拭くというまさに画期的なフィルムの上映方法(兼フィルムの反転現像処理法)だった。映写されている画面は、はじめネガ像が投影され、それが同じ絵のままで段階的にポジ像に変化していくという通常“映画”では考えられない“映像”だった。これがなぜ通常の“映画”で考えられないかと言えば、フィルムが一回毎の上映、現像(漂白)処理で、元に戻らなく成るからだ。一旦反転現像の途中段階でポジ像となったフィルムは、もはや以前のネガ像の状態に戻すことは出来ない。つまり、この現像(漂白)処理されるフィルムは、各パフォーマンス毎で使い捨てとなる。このことは、ネガから多くのコピー・プリントを取り、それら基本的に全く同じ複製を、多くの映画館に配給し上映するという“映画(産業)”の発想とも相容れないのかもしれない。何しろ、手仕事で行なう映写中の現像(漂白)作業は、それ自体一回限りのオリジナルだからだ。

 メタムキンのメンバー達が設立した映画フィルムの自家現像処理のための施設、アトリエ M T K はフランスの法律に基づく N P O 組織だ。メタムキンの表現行為、とりわけパフォーマンスの中で映画フィルムを使う際、そのフィルムの処理を映画産業任せにしないのは、彼等の表現上の姿勢でもあるようだ。東京でのメタムキンの公演の時、並行して行われた“講演と質疑応答”で彼等は、表現上の問題を含めた“ファシズム”に対抗する態度を明確に表明していた。映画フィルムを使う表現の可能性は、映画産業の標準的な処理の中にだけ閉じ込められるべきではない。これが彼等が現像処理等を自前の施設でやらなければならない理由なのだ。
 “映画”は、それを絵画や彫刻のような個人的に行なわれる芸術表現の一分野として考えた場合、制作手段が“映画産業”の意向に左右されやすいという制約を抱えている。映画フィルムでは最小のフォーマット 8mmフィルム、とりわけカセットタイプのスーパー 8 、シングル 8 は 1960 年代末から 1970 年代にかけて世界中で使われた。しかし、家庭用ビデオが登場すると急速に姿を消していく。これは 8 mmフィルムを主として使っていた人達が、その使用媒体をビデオに換えていったという経緯と、それに従って、フィルムやカメラ、映写機等を生産していた企業と、現像所等が手を引いていったということだった。映像が得られさえすれば、フィルムでもビデオでもどちらでも構わないと考える人が多かったのだろうか。あるいは、便利なものが求められたのか、新しいものが喜ばれたのか、理由はともかく、8 mm は急速に少数派になっていく。そして、フィルムにこだわった一部の作家志向の人達等が取り残される形となった。
 油絵の具や、筆やキャンバスなら材料をそろえて一から作るのはそう困難なことではない。実際こうしたものを手作りしている画家も居ないわけではない。ところが、近代的な工業製品であるカメラやフィルムを自分で作るのは、不可能ではないかも知れないがそう簡単ではない。ここに、制作手段を映画産業の経済的意向に頼らなければならない映画制作の制約がある。メタムキンが主張するのは、それでも出来ることは自分でやり、何とか自立しようということだろう。当然限界は在るだろうが、どこまでやることが出来るのかはやってみなければ分からないはずだ。そして、少なくとも、映画フィルムの現像処理が映画産業に頼らなくても出来ることは、アトリエ M T K がまず証明した。

◆アトリエ M T K と手工業的映画のネットワーク

 アトリエ M T K は 1980 年代から 1990 年代にかけてフランス、ヨーロッパに広がっていく自家現像所、を中心とする実験/自主映画制作、上映のネットワークのパイオニアだった。メタムキンのメンバー二人が、映画フィルムの自家現像を行なうことを決意した 1988 年から4年後の 1992 年に、 N P O 法人組織としてアトリエ M T K は設立された。翌年 1993 年には彼等がアトリエ M T K で習得した知識、技術に多くの実験/自主映画制作者が興味を持ち、グルノーブルの現像所を訪れた。メタムキンのパフォーマンスで使う映画フィルムを、自分達で現像処理するための現像所ということで滑り出したアトリエ M T K は、自分達の仕事に支障が出る程外部の者の関心を呼んだ。1995 年に彼等は、こうしてアトリエ M T K を利用する映画フィルムの自家現像に関心を持つ人達を,グルノーブルへ集めてネットワークを作ることを提案したのだった。
 2001 年現在、このネットワークの関係ではフランス国内に5か所の自家現像のための N P O 組織がある。また、スイス、ジュネーブにはゼブラ・ラボ、オランダ、ロッテルダムにはスタジオ・エーンという現像所が活動している。こうした映画フィルムの自家現像処理を中心とした N P O 組織は戦後のフランス/ヨーロッパの実験/自主映画関係の組織としては第三世代ということが出来る。これら自家現像所の設立にあたっては、ヨーロッパでのスーパー 8 フィルムの現像所が徐々に縮小されたこととも関連があった。
 一方、旧東ヨーロッパの国等から、ウクライナ製の映画フィルム現像タンク L O M O が入って来たことも自家現像の技術的裏付けになっているようだ。この L O M O とドイツ製 J O B O の現像タンクが彼等現像所の主要な現像機だ。ただ、現像所によってその目指す方向性も同じではない。例えば、パリ郊外アニエールでニコラ・レイを中心に活動している N P O 組織、ラボ・ミナブルでは、 2001 年 3 月に訪問した際、一般の現像所で使うのと同じ自動現像機を稼動させようとしていた。ここには、中古で入手したという音ネガをつくるための“カメラ”も、16 ミリのシネ・コーダーと繋がれていた。設備は現像所によってまちまちだが、ラボ・ミナブルには撮影されたネガ(あるいはリバーサル)フィルムを現像するための、 L O M O /J O B O タンク、そして稼動すれば自動現像機がある。現像されたネガはコンタクトプリンター(一般現像所の中古品)オプチカルプリンター( J K )でポジが取られる。音響に関しては、最終的にはシネテープから、音ネガを取れるようになっているので、基本的に総ての現像所作業が N P O 組織であるラボ・ミナブルで処理出来る。

 自家現像を行うことを中心とした映画制作/上映の N P O 組織では、基本的には映画産業とは別の“映画”が探究されている。それは、メタムキンが映画産業の標準的な現像所での、正常な処理に表現上の問題としても満足出来なかったということと同じだ。勿論、現像所の専門家に任せずに作業を自分で行なうことで、コストを大幅に削減することも出来る。このような“オールターナティブな映画制作”からは、“映画産業”とは別の“映画表現”が出現する可能性がある。
 このことは、メタムキンが東京での“公演/講演”で強調していたこと、彼等の言い方を借りれば表現上の“ファシズム”への挑戦でもあるのだろう。
 近代的なハイテク産業である今日の映画産業では、個人的な表現上の作業工程を経済効率抜きで行なうことはむずかしい。しかし、映画フィルムの、とりわけ現像等の処理工程は、必ずしもハイテク工場でなければ行なえない訳ではない。もともと、その誕生の頃にはほとんど手工業的に行なわれていた現像処理を含む制作工程は、今でもそうした方法で作業出来ないわけではないのだった。特に、多くのプリントを取って世界中で同時に上映するわけではない個人の表現として制作される“映画”、“実験映画や自主映画”が、映画産業と全く同じように制作されなければならない義務はない。絵画や彫刻のような個人による芸術表現の媒体として“映画”を考えた時には、フィルムも造形の素材として、直接手で扱うことも出来る。メタムキンが強調する表現における“反ファシズム”とは、“映画”に対する見方を変えろというメッセージでもあった。

 撮影、現像、プリントというような、伝統的な映画産業が行なっている作業工程を、そのまま踏襲するような形の作業でも、フィルムを直接手作業で扱う方法は存在していた。メタムキンが自家現像で処理したフィルムは、映画産業の現像所が“失敗、事故”と名付けているような映像さえも表現の中へ取り込んでしまう。
 映画フィルムを造形の素材のように使って行なう表現には禁忌も限界も無い。

◆新しい“映画”のあり方とメタムキンの“ライヴ映画”

 メタムキンが行なうパフォーマンスは、彼等の言い方では“ライヴ映画”だ。彼等がこの“パフォーマンス”で問題にしているのはあくまでも“映画”なのだ。確かに、映写されるスクリーンは左右に二つあり、いわゆる“マルチ・スクリーン”映画といえないことはない。しかし、かつてフィルムでさんざん行なわれた“エキスパンテッド・シネマ”とはやや趣を異にしているのではないだろうか。メタムキンの“ライヴ映画”で、彼等はあくまで“映画”を問題にしていたからだ。
 括弧付きのエキスパンテッド・シネマに近い試みは別に行なわれている。同じメタムキンのメンバーが他の映画作家、造形作家、音楽家、等と協同で行なった“パフォーマンス/インスタレーション”である『キューブ』では、数メーター角の正方形の透過スクリーンで出来た立方体(キューブ)の中にメンバーが入り、キューブの外に中の様子を投影した。このパフォーマンスで彼等は、必ずしも“映画”を問題にしていない。美術館の開館時間中、彼等メンバーは終始このキューブの中で“生活”し、それは常に外に投影されるのだった。
 メタムキンのパフォーマンス、“ライヴ映画”で問題なのは“映画”だ。そのために、このパフォーマンスでは映写機から映写される映像は基本的に全て観客の前に設置されたスクリーンへ映写される。そして、そこで、音と映像が“ライヴでモンタージュ”される。そうした即興による“映画制作”のあり方の中に、上映しながらの“漂白/反転”処理も位置付けられるのだろう。いずれにしても、そうした試みは全て、それまでの“映画”のあり方に対する問題提起となっている。その問題提起の重要な部分に、映画フィルムを造形的に扱う試みがあった。とりわけ、現像(漂白)処理を上映中に行なうことは、一方で映画の画像生成のプロセスという観点から、他方で映画(フィルム)が持っている複製が無数に作成出来るという観点からも新しい提起だった。

 映画フィルムに画像を生成する方法は、必ずしもカメラを使って撮影し、そのフィルムを現像プリントするだけに留まらない。前述の直接描画や、ファウンド・フーテージを使った画像生成の方法もあった。また、メタムキンのように、画像生成と映写を同時に行なう試みもあった。実は、映写中に並行して画像を生成する“ライヴ映画”も必ずしもメタムキンが初めて行なったわけではない。

◆奥山順市のライヴ・パフォーマンス“映画”『わっか・BEING PAINTED 』

 奥山順市の“映画”あるいは“映画上映パフォーマンス”『わっか・BEING PAINTED 』は1970年に初演された。35ミリフィルム使用で15分間のライブと記録されている。注:(8)
 作品はその後も成長しながら何回も公開されている。ライブパフォーマンス故に、いつ何処で行なわれたのかで作品の内容も若干異なっているのかもしれない。1998年、東京都写真美術館で行なわれたライヴ・パフォーマンスと、1999年フランス、グルノーブルの102劇場で行なわれたものはほぼ似たような形態だった。1.5メートルぐらいの16ミリ幅、素抜けリーダーをループに繋ぎ、映写機に掛け映写する。映写しながらその素抜けの表面に朱肉で指紋を付けていく。スクリーンには、少しずつ付けられた指紋が、映写機のゲートを通る度に一瞬投影される。指紋は段々画面を覆うようになり、やがて流れたりして形態が崩れだす。そのうち、フィルムもループ上映に耐えられなくなると傷が入り、パーフォレーションが切れ、ついにはフィルムが切断しパフォーマンスは終了する。その間ずっとパフォーマーの奥山順市は状況を淡々とその場で語り、これがこの“映画作品”のサウンド・トラックになっている。
 奥山順市は次のように語っている“何も写っていない透明のスヌケフィルムをループ状にして、映写機にセットする。次に、映写しながら指に付けた朱肉を断続的にフィルムに直接ペイントし、徐々に映像を増殖させて行く。指紋が充満して来たら、さらに指で伸ばしたり引っ掻いたりして変化させるのだ。そして、フィルムを引張って止めストップモーション効果を狙うと、パーフォレーションは破壊されて映像がひきつってしまう。このあたりが潮時と、最後にはフィルムを引き千切って終る。
 セレモニー的な段取りを大切にした作品だ。”注:(8)

 この作品でも、メタムキンが語ったのと同じ“ライヴ映画”と言う用語が使われている。それは、この作品でも“映画”が映写されながら作られていく、という画像と音響の生成のプロセスに因っているからだろう。
 『わっか』では、映写機が回りはじめると同時に“映画”も始まる。最初はほとんど素抜けのフィルムを、映写ランプとレンズがスクリーン上にわずかなフィルムのしみやきずを投影する。やがて、朱肉によって作られる画像が投影されると、それは、映写機がフレーム毎に行なう間歇運動のために、微妙な動きをスクリーン上に生成する。
 映写機の構造の基本は、帯状のフィルムに並べられた少しずつずれた“動き”を示している画像を、間歇的かつ連続的にスクリーン上に投影することだ。普通は、このフィルム上の画像はカメラによって生成される。カメラは一定の“動き”を撮影するのに、映写機同様フィルムを間歇的かつ連続的に送り、感光乳剤上に光のエネルギーでこの画像を作る。しかし、カメラによらないで作られた画像は、映写機で投影出来ないわけではない。そして、映写機で映写されるフィルム上の画像は、それがどのようなものでも基本的に何らかの“動き”を生じる。これは、映写機がフィルムを間歇運動で一コマずつ投影することで生じる。トニー・コンラッドの『ザ・フリッカー』のように、画面全体がほとんど一様な黒または白(透明)の面であっても、何らかの“動き”がスクリーン上の画面に現われる。映画のスクリーン上の動きの“錯覚”は、映写機の間歇運動にその元がある。

 こうした映写機が造り出す“映画の動き(の錯覚)”を、スクリーン上に造り出すために奥山順市は、素抜けフィルムをループで映写機に掛け、映写しながら朱肉で指紋をフィルム上に捺した。もし動きが不要なものだったなら、例えばスライド映写機で投影することも出来る。しかし、『わっか』は映画を問題にしたパフォーマンスだった。“ライヴ映画”の語が示す通り奥山順市にとってこのパフォーマンスは“映画”なのだ。“まず映画の既成概念をバラバラにして、そこから新たな視点で映画を捉え直そうと試みたのである”注:(9)と語る奥山が、バラバラにしようとした映画の既成概念とは一体何だったのだろう。
 『わっか』では、画像生成に身体(による行為)が直接関与している。観客はスクリーン上の映像と、その映像を制作している奥山順市を同時に見ることで、画像生成と直接的な身体の関与の関係を確認することが出来る。画像生成に、カメラのような機械とは異なる身体が直接関与することで、機械では出来にくい偶然性が画面にも現われる。フィルム上に、たった一回朱肉で指紋を捺す時も、また、一回のパフォーマンスのはじまりから終わりまででも、いずれも同じことは二度と出来ない。そして、当然のことながら、フィルムに直接指で指紋を捺すことで生成された画像は、カメラで撮影した映像が持っているような“再現性”ではなく、絵画や彫刻のような造形性をスクリーン上に展開する。

 こうして、身体の直接的な関与で生成された“映像”を見る時、スクリーン上に現われるのは、単に拡大された朱肉で捺された指紋ではない。なぜなら、映像の元は確かに朱肉で捺された指紋だが、投影されているのはフレーム毎の捺された指紋であり、それは、映写機の間歇運動によって“映画的動き”を伴っているからだ。まして、捺される指紋はフレームを越えている。走行するループ・フィルムを、基本的には止めることなく捺される指紋は、パフォーマーにとって画面上の構図等に関して厳密な制御が出来るものではない。全体のループ・フィルムのインターバルの中で、そして、各々の一コマずつの画面の中でパフォーマーは出来る限りの制御を試みているのだろう。しかし、9.65 mm×7.26mmという実画面サイズが、通常数百倍に拡大されて映写されるということを考えれば、偶然によってもたらされる画像の効果もこの作品の重要な要素だろう。“映画は、計算されたプランに、奇跡と呼ぶような追い風がどれだけ吹くか、ということでできが決まってくるといっても過言ではない。”注:(10) 奥山のこの発言は、必ずしも偶然のことだけを言っているのではないと思われるが、偶然も取り込んでしまったのが“ライヴ映画”『わっか』だった。

 奥山順市の『わっか』では、映画フィルムは手に持って直接扱えるような、粘土や絵の具等と同じような造形の素材だった。映写機が、こうして直接作られた画像を、間歇的連続運動でこれらの画像をスクリーンに投影する時、そのスクリーンを見るものは造形的に扱われた映画フィルムと、映写機によって作られた“動きを伴った映像”を発見する。ここでは画像を生成するのに撮影は行なわれていない。しかし、トニー・コンラッドの『ザ・フリッカー』とは逆に、フィルム上の指紋とスクリーン上の“映像”との間の相関関係は観客に直ちに了解される。映画フィルムでの画像生成、それも具象的なものでも必ずしもカメラによる撮影が不要なことは『浸透画』で奥山順市自身が明らかにしている。 注:(11) 奥山順市が“ライブ映画”と呼ぶ『わっか』は映画なのだろうか?。しかし、これも映画フィルムや映写機といった伝統的な“映画”に固有な媒体や機材を使って作られた“映像表現”であることは間違いない。

◆造形の素材としての映画フィルム

 この小論では映画フィルムを造形的に扱う作品を検討してきた。映画フィルムを造形的に扱うといっても、ここではとりわけ“画像生成”を造形的に行なったものを取り上げた。ビデオやコンピューターによる画像生成と映像作品制作は、どちらかというと“情報処理”の側面が“造形制作”の側面より強いのではないだろうか。画像処理を、処理ソフトに依存せざるを得ない映像制作者が、身体的行為の痕跡を作品の“見え方”の中に残したい場合には、映画フィルムがビデオテープやハードディスクより身近な造形の素材なのかもしれない。
 ここで取り上げたいくつかの例は、映画フィルムが造形の素材として多くの可能性を持っていることの証左ではないかと思う。


注:(1) シェルドン・レナン著 波多野哲朗訳『アンダーグラウンド映画』1969年 三一書房 175ページ
注:(2) 実際には、どの程度フィルムの実画面上の濃度を濃く、あるいは薄くするかということは、単純に撮影対象の明るさ(暗さ)にのみ依存している訳ではない。フィルムの感度や、露光時間、場合によってはレンズの明るさにより、実際の明るさとは異なった明るさの画面を“撮影”することが出来る。
注:(3) L'art du mouvement collection CINEÅLMATOGRAPHIQUE DU MUSE NATIONAL D'ART MODERNE Centre Georges Pompidou 110 ページ
注:(4) Film Culture , No 37 , 1965
注:(5) アニメーション 新技法シリーズ 月岡貞夫 美術出版社 8ページ
注:(6)(3)と同じ。159ページ
注:(7) 絵画と社会 ピエール・フランカステル 大島清次訳 岩崎美術社 36ページ
注:(8) 現在形の実験映画  奥山順市 『コレ、は映画だ』 6 編集・発行 原田健一 1994年 84〜85ページ 98ページ
注:(9) 奥山順市「映画解体計画」から「映画組成計画」へー映像表現の創造特性と可能性ー
 情報デザインシリーズvol.4 京都造形芸術大学編 角川書店 29ページ
注:(10)(9)と同じ31ページ
注:(11) 映画が生成する空間と運動  太田曜 東京造形大学雑誌10号


論文|造形の素材としての映画フィルム
copyright(C)2012 Yo Ota All right Reserved.